柳は緑、花は紅

E悟れないのは時間をかけるからだ

主客合一した意識でものを見ること、それは結局悟りの眼でものを見るということでもあるわけだが、この悟りの眼でものを見るということに関しては例えば、次のように考えておられる求道者や瞑想者は少なくないのではないだろうか。
悟りの眼でものを見れるようになるためには、それ以前の問題として、まず長い修行の末に悟りというものを獲得しておかねばならない。
だが真実はそうした考え方とは裏腹なところにある。なぜならこれまでの話からもお分かりのように、悟りの眼でものを見ている状態とはものを有りのままに見ている状態のことであり、ものを有りのままに見ている状態を裏から眺めると、ものを絶対の今に即して(おいて)見ている状態と言えるからである。
ものを絶対の今に即して見るのに、どうして長い修行によって培われたものを必要とするだろうか。そんなものを必要とするどころか、その気になれば、たった今この時点で可能なのが、絶対の今に即してものを見るということではないか。もっと積極的な言い方をするならば、たった今この時点以外のいつ、それができる時があるというのだろう。
言う間でもなく、絶対の今はここにしかない。長い修行過程の先にあるのは未来という名のあそこである。あそこはここではないように、未来は絶対の今ではない。もちろん時間が経過すれば、その未来が絶対の今になる時が来るのは間違いないがその時我々が通過する絶対の今は、我々がここで通過している絶対の今と同じものなので、その時を待つ意味は皆無である。
絶対の今に即してものを見れるようになるのに時間はかからない、というよりもむしろ、時間をかけない時だけそれができる、というのが本当のところなのだ。時間をかけようとしている間は、ここにある絶対の今を「パス」し続けているわけだから。
時間をかけずに間髪入れずに見ること、それが絶対の今に即して見るということであり、悟りの眼で見るということでもあり、とどのつまりは悟りに到るということでもある。
これらと同じ意味のことを、かの有名なクリシュナムルティは「即座に見る」という言い回しで表現した。
クリシュナムルティと言えば、悟り(真理)に到るのに方法は必要ない、という持論で有名だが、その彼に対してある人がこんなような質問をしたことがある。「即座に見るというのは一つの方法ではないのですか?」それを受けたクリシュナムルティは「アチャーッ!」と言って頭を手で押さえ……るわけありませんよね、あのクールな彼が。この世で最も鼻毛処理をしているシーンを描きにくい、あの彼が。彼の回答は、「それは方法ではない」というものであった。
その真意について、私はこう考える。
何であれ方法と名のつくものは、その実行において必ず時間的な経過を伴うものである。方法を実行するためには、長短は別にして時間がかからないということはあり得ない。無時間で実行できる方法なんて無い。
ところがこの、このこのこの「即座に見る」においては、方法を実行するために必要な時間の存在が全く許されてはいない。時間をかけずにたった今この時点で見ることが「即座に見る」の意味なのだから。
従ってそれは、方法ではないどころか、方法の否定であるとすら言えまいか。が、それを方法と称すべきか否かということは最終的には、方法という言葉の定義にかかってくるものなので、これ以上の詮索は止めておこう。
いずれにしても、これらのことから次のような結論を引き出すことができる。
世の多くの求道者がなかなか容易に悟りの眼を開き得ないのは、時間のかけ方が不足しているからではなく、時間をかけていることそれ自体に原因があるのだ。

《柳は緑、花は紅》おわり

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