『マインド自動浄化法』・最終回


Q他の使い方&余談

ネガティブな感情を減少・消滅させるためのツール、という謳い(うたい)文句で『マインド自動浄化法』をご紹介させていただいておりますが、ここに言う「ネガティブな感情」というのは、我々が心に抱くネガティブな想念・思いとか、気持ちとか、イメージといったものまで含んでいるものとお考えください。つまりそれぐらい、ここに言う「ネガティブな感情」なる言葉の意味は広く取っていただきたいということです。
さて実は、『マインド自動浄化法』を最も捧げたい人たちというのが私には居まして、それはどういう人たちかと申しますと、これから何事かにチャレンジしようとしているんだけれども「失敗への恐れ」から身がすくんでいるって感じの人たちです。生まれつき太い神経の持ち主は別として、そうでもない者にとっては、「失敗への恐れ」というものほど、これから何事かにチャレンジしようとしている自分の身をすくませるものは無いでしょう。か゜、この「失敗への恐れ」というものもまた、冒頭の話からもお分かりのように、『マインド自動浄化法』の実践を通して減少・消滅させられるものの一つに数えることができます。すなわち『マインド自動浄化法』を、ここに言う「失敗への恐れ」を減少・消滅させることのために使うこともできるわけです。そういうことのために『マインド自動浄化法』を使う場合の、具体的なやり方につきましては皆さん既に分かっておられますよね。そう、「失敗への恐れを遠ざけない。しかしてそれを感じない。」というのが、それです。
が、この場合、こうした方がもっと効果を出しやすいというコツがありますので、それについても述べておきましょう。どういうものかと申しますと、『マインド自動浄化法』を実践するに先立って、これから自分が身を置くことになる「具体的なチャレンジの場面」をイメージするということです。「具体的なチャレンジの場面」の意味がお分かりでしょうか。チャレンジする対象はもちろん人それぞれに異なるわけですが、それに向かって自分が今実際にチャレンジを行っている場面、というのがその意味です。
それは人によっては、例えば「大学なり高校なりの入試会場で試験問題に向かっている場面」であるかも知れません。また例えば「大勢の人が見ているステージ上で何かパフォーマンスをしている場面」だったり、「書きためて来た小説を出版社に売り込むために電話を取っている場面」だったりするかも知れません。
いずれにしてもこの、「具体的なチャレンジの場面」というのはこれから自分が身を置こうとしているもの、すなわち今の自分から見ると未来に属するものに他なりませんが、それをイメージの中で先取りして自分が今実際にそこに身を置いているつもりになるわけです。もちろん前述のように、『マインド自動浄化法』を実践する前にですよ。場合によっては自分の判断で実践の最中にそれをしても悪いってことはありませんけれども、実践の終了後にそれをするのだけはお止めください。言われんでも分かってるわい、ですって……。話を戻しますが、それをすることによって我々は、ここに言う「失敗への恐れ」を臨場感をもって心の中にかきたてることができます。そうした上で『マインド自動浄化法』を実践すれば、より大きな成果をあげられるということは容易に想像がつくでしょう。

今回が最終回ってことで、心に「残尿感」を残さないためにも、余談という形で最後にいくつかのことを書き加えておきましょう。
この連載の中でも触れましたように、真我とはある角度から捉えると、感じることを伴わずに色々なものの存在を覚る(しる)主のことだとも言えます。ここに言う「色々なもの」とは次のようなものを指します。例えば思考や感情をはじめとする、我々が心に抱く全てのもの。また例えば、色や形や音をはじめとする、我々が五感で捉える全てのもの。また例えば光や大いなる一者をはじめとする、我々が瞑想中に出会う全てのもの。
真我が感じることを伴わずに色々なものの存在を覚る(しる)主であるとはいえ、その真我の側に居る人すなわち悟りの状態にある人が、心に何も感じないわけではないことは、連載をここまで読んでこられた方ならば既に察しておられるものと思います。しかし一応、誤解があってはいけないので、そのことについて説明しておきましょう。
言うまでもなく、彼らとて人の子です。他の人たちと同じように、心に何かを感じることは当然あります。が、ただ一つだけ彼らが他の人と違うのは、そういう時「心が今感じているものを覚っている主の側」すなわち真我の側に居るということです。他の人たちはそういう時、心が今何を感じているのかということは覚っておりますが、それを覚っている主である真我の側にはおりません。そうそう違いがあるわけです。
ちなみに悟りとは、これもおさらいになりますが、前述のような色々なものを覚る主である真我が何かの拍子に一転して、自分の存在を覚ってしまうという出来事のことです。真我を肉眼になぞらえて説明いたしますと、それはあたかも、外界の色々なものを見るための道具である肉眼が、何かの拍子にまかり間違って自分自身を見てしまうようなことだとも言えます。
肉眼が自分自身を見るなんてことは現実にはありませんけれども、そういう出来事をイメージすることで、悟りの何たるかを部分的にとはいえ類推できると思います。少なくとも『マインド自動浄化法』の実践などを通して、真我で何かの存在を覚るということの意味を体験的に理解するに到った方にとって、それはそんなに難しいことではないはずです。
もちろん悟りの何たるかを類推できたからといって悟れる保障は無いわけですが、少なくともそれによって、世に出回っている様々な悟り観、悟りに関する物言い、悟りの定義などの正誤を見分ける力は増すはずです。その意味は大きいと思います。こんなことを書くと、「カモ……じゃなくて、大衆にいらん知恵を付けやがって!」という声がどこかから飛んでくるかも知れませんけれども。
先ほどの話に戻りますが、真我が真我自身を覚るという出来事つまり悟りが訪れる契機となるものは当然、人それぞれに異なります。が、昔から、不意打ちのように思いがけずやってくる五感への刺激がその契機になったという人は少なくないようです。ちなみにあの有名な一休禅師の場合ですと、深夜の座禅中に聞いたカラスの鳴き声がその契機になったと伝えられておりますね。
以上をもって、私の心の「残尿感」も大幅に解消されたことだし、今回の連載は一区切りとさせていただきます。ここまでの長い長い話にお付き合いくださいまして誠に有難うございました。
連載を開始する前に下書き原稿を書き上げていたのですが、連載の途中で気が変わり、その中のいくつかの箇所はボツにしました。その一方で、アドリブで新しく書き加えた箇所もいくつかあります。連載のペースが当初の予定より遅くなることもあった主な原因はそれです。二番目の原因はやっぱり生活のための仕事もせにゃならん立場に私が居るということです。ついでながら、この点は皆さんに是非ご理解いただきたいと思います。皆さん同様、仕事を抱えている身といたしましては、自分の思いのままのペースで「更新」し続けるのは時に難しいこともあるわけです。特にこれから年末となりますので、その傾向は一層強まるものと予想されます。果たして、この後どうなりますことやら……。
それでは皆さん、またお会いしましょう。
(終わり)
TOP INDEX BACK NEXT