真我は垂直の次元に在り〈前編〉


はじめに

これからお届けする『真我は垂直の次元に在り』は内容的に、『柳は緑、花は紅』を先に読んでおいた方がより一層分かりやすいものになっている。なので、まだ読んでおられない方には、先にそちらの方を読んでおかれることをお勧めします。
さて、『柳は緑、花は紅』をすでに読まれた方にお尋ねしたい。
その中で私は、「モノに釘付けになる意識」言い換えるとモノを見る意識について取り上げたが、このモノを見る意識というものはいわゆる心(想念の母体あるいは出所としての心)とは別物であることを理解しておられるだろうか。特にそこまで深く考えなかったという方はここで、そのことに眼を向けていただきたいのである。悟りを知る上でとても重要なことだから。
モノを見る意識が心とは別物であると言えるのは、まず第一に、それが現れるのは我々が無心になった時つまり、一切の想念が脇に置かれた時に限られるからである。第二に、そもそも心自体にはモノを見る働きは備わっていないからである。心に備わっているのは想い(顕在意識レベルのものもあれば潜在意識レベルのものもある)を発したり抱いたりする働きだけ、ということはご存じであろう。
ついでにダメ押しさせていただくならば、モノを見る意識が心とは別物であることを明確にしてくれるような事実がもう一つある。それは、モノを見る意識は実は物理的なものばかりではなく、心の想いをも見る立場にある、というものである。『柳は緑、花は紅』ではこのことには触れなかった。これについての詳細は今後の流れの中でお話しさせていただくつもりである。なのでこの話、ピンと来ない方はその時まで横に置いといて下さっても構わない。先に取り上げた二つの事柄だけでも、モノを見る意識と心は別物であることを裏付けるには十分なはずだから。
とはいえこの、モノを見る意識は心とは別物であるという事実は(現時点における)世間一般の通念に照らすと違和感があるに違いない。人間には心と体の二つのものしかない、というのが世間一般の通念であるから。
ここに言う世間一般の通念とは、悟る前の人たちの通念と言い換えることもできるが、悟りを求める者がまず押さえておくべきは、人間には心と体の他にモノを見る意識というものがあるという事実である。
ここで明かさせていただくが実は、このモノを見る意識こそが我々にとっての本当の自分つまり真我であり、それを発見することが悟りに他ならないのだから。
悟りを求める人の多くは、悟りが真我の発見を意味しているところまでは知っているが、そこまでの理解はないので、心の一番深い層(潜在意識の深奥部)に真我を求めるという誤りを犯しやすい。、心の一番深い層に入って行くことそのものが悪いと申し上げているのではない。悟りを求めているのだったら、行き先が違いますよ、と申し上げているのである。
話は変わるがあなたは、モノを見る意識は一体どこに存在しているのか、もしくは、モノを見る意識はどこから来るのか、といったことを考えたことがおありだろうか。
前述のように、悟りとは真我つまりモノを見る意識を発見することなのだが、実はその中には、モノを見ている意識の所在を知ることも含まれているのである。そこまで行ってはじめて本当の意味でモノを見ている意識を発見したことになるのだ。
そういう話を、これからしたい。

@見るものと見られるものは次元が異なる

あなたはお気づきになったことがあるだろうか。我々の眼に映る世界の像は平面状に広がっているという事実に。平面状に広がっている、という言い方が難しく感じられるようでしたら、写真のように広がっている、と言い換えてもよい。つまるところの意味は同じであるから。
写真で見ると例えば、球は円に見え、立方体は二つか三つの四辺形の集まりに見え、水平線をいただく海は横長い帯に見え、ピラミッドは三角形のツイタテに見えますよね。要するに写真の中では、全てのものが奥行きを奪われて平面状になっていると申し上げたいのである。
もちろん我々は写真を見て、そこに奥行きを感じることはできる。前にあるものは後ろにあるものより大きく、後ろにあるものは前にあるものより小さく映っているからだ。にも関わらず、その像自体には奥行きというものがなく、あるのは平面状の広がりだけである。写真というものがそもそも紙という平べったいものでできているので、当たり前と言えば当たり前の話ではあるのだが。
我々の眼に映る世界の像もまたそれと同じように、奥行きがなく平面状に広がっていることにお気づきだろうか。
我々の眼に映る世界の像に我々の意識が奥行きをを感じているのは事実だとしても、写真と同じようにそれ自体は平面状に広がっており、奥行きというものが無い。
ピンと来ない方は次の事実に思いを馳せていただきたい。眼に見えるものと同じ大きさのものが映った写真を、我々は現実と見間違えることがある。もしも、我々の眼に映る世界の像と写真が前述のような意味で同種のものでなかったとしたら、そんなことは起こり得ないであろう。
まだピンと来ない方は、写真を入れる額を眼前に置き、景色などを眺めてみられるとよい。それが写真みたいに見えたら……さすがにそこまでやる人はいないか。
さてこれらのことから、我々は次のような結論を引き出すことができる。
我々の眼は平面しか見ることができない。あるいは、我々の眼は平面しか映すことができない。
ご存知のように我々の住むこの世界は、平面に奥行きというもう一つの広がりがプラスされた立体の世界である。だから一つの法則として、奥行きを持たない平面だけの存在なんてものはこの世界にはおれないようになっている。たとえどんなに顔の平べったいお方でも、横から見るとちゃーんと厚みがあるのは、そのためなのである。
その立体の世界の住人である我々が眼に平面しか映すことができないというのは一体、どういうわけなのだろう。本当のことを申し上げると、我々は立体の世界の住人であるからこそかえって眼に平面しか映すことができないのである。立体の世界の住人であるにも関わらず……なのでは決してない。そのカラクリを知る近道は次のように考えてみることである。
もしも我々が立体ではなく、平面の世界の住人であったとしたら、どうなるだろうか。なに、顔の平べったい人が喜ぶですって……。私の言葉が足りなかったようだ。もしも我々が平面の世界の住人であったとしたら、世界は我々の眼にどのように映るだろうか、ということを考えていただきたいのである。
ここで求められるのは想像力である。想像力を働かせると、まずこういうことが分かる。平面の世界の住人にとっては、視線を動かせる範囲は平面の中だけに限られる即ち、平面の中だけでしか視線を動かすことができない。
それが分かると、平面の世界の住人の眼に映るのは線だけである、とうこともまた分かる。なぜなら、平面の中だけでしか視線を動かせないとなると、その視線が捉えることができるのは線だけであるから。この理解をもう一歩進めて、平面を眼に映すためには平面の外に身を置く必要があるというところにまで思い至った方は満点である。
このようなわけで、立体の世界に居る我々が平面しか見ることができないのと同じように、平面の世界の住人は線しか見ることができないのである。この二つの事実を見比べた時、その根底に横たわる一つの法則が浮かび上がってくる。線は一次元と呼ばれ、平面は二次元と呼ばれ、立体は三次元と呼ばれることがあるので、その伝に従って説明しよう。それは、こうである。
いかなる世界の住人であろうとも、彼らが見ることができるのはその世界の広がりよりも一次元下の広がりに限られる。逆に言うと、ある次元の広がりを見るためには見る者はそれよりも一つ上の次元に存在していなければならない、ということである。
ちなみに次元という言葉がこういう形で用いられる場合、次元の数が一つ増えるということは、前の次元の広がりが垂直方向にふくらんだことを意味している。具体的には、一次元の線が垂直方向に積み重なって二次元の線になり、二次元の線が垂直方向に積み重なって三次元の線になる、ということである。
それを踏まえると、次のようにも言うことができる。ある次元の広がりを見るためには、見る者はその広がりに対して垂直方向に存在していなければならない。具体的には、線を見るためには線に対して垂直方向に身を置かねばならず、平面を見るためには平面に対して垂直方向に身を置かねばならず、立体を見るためには立体に対して垂直方向に身を置かねばならない、ということである。
余談だがもし仮に、平面の世界にも写真なんてものがあるとしたら理屈の上では、そこに写っているのは様々な長さの線ということになる。様々な広さや形が写っている我らが世界の写真とは大違いだがそれでも、両者の間には共通点がある。何かというと、どちらもそれを見るためには、それに対して垂直方向に身を置かねばならない、ということである。
いかなる次元の写真であれ、それを見るためにはそれに対して垂直方向に身を置かねばならないという事実に思い至れば、前述の法則を理解するのは難しくないであろう。

A眼を通して世界を見ている我々の意識

我々の眼は世界を平面状に広がるものとして見ているのに、我々の意識はそれにだまされていない即ち、その眼という「不完全な」道具を通して、立体状に広がる世界をちゃんと見ることができている。簡単に申せば、眼は世界を平面的なものとして見ているのに、意識は世界を立体的なものとして見ている。その意味では、眼によって提供された情報の足らざるところを意識がおぎなっている、とも言える。
例えば眼前に広がる景色を、我々が巨大な壁画と見誤ったりしないのは、そのためだ。眼と意識の関係はこのようなものである。
私はこれまで眼という言葉を肉体の眼という意味で用いてきたが、広い意味では意識もまた眼と言えなくもない。モノを見る働きを持っているのだから。意識を眼と呼ぶことが許されるならば、我々は世界を見る時、肉体的なものと意識的なものと二種類の眼を使って見ていることになる。
さあそれではここで、考えていただきましょうか。
その、もう一つの眼とも言うべき我々の意識は何次元に存在しているのだろうか? ということを。
ここまで読んでこられた方にはもはや、言う間でもないことだろうが、その答えは四次元である。立体は三次元だが、その広がりを見るためには、見る者はそれに対して垂直方向つまり四次元に存在していなければならないのだから。四次元という言葉はしばしば心や霊的な世界を表すために用いられるが、ここに言う四次元がそれとは別物なのはもちろんである。
眼を通して世界を見ている我々の意識は四次元なのである。それを、本当の自分という意味を込めて真我と呼ぶことにする。
とはいえ、その真我の存在を理屈じゃないところで知っているのは悟った人に限られる。理屈じゃないところでそれを知ることこそが悟りに他ならないのだから。
悟る前の人にとっては、真我つまり眼を通して世界を見ている意識が何次元の存在かということ以前に、眼を通して世界を見ている意識が存在するという事実そのものになじみがないはずだ。悟る前の人は世界を見る時、あるいはモノを見る時、肉体の眼だけでそれらを見ていると思い込んでおり、肉体の眼を通して世界やモノを見ているもう一つの眼つまり意識が存在していることに気づいていないはずだ。
私がこれまでしてきたような形で説明されてはじめて、その存在を推し量ることができるのみであろう。
(Bに続く) 
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