真我は垂直の次元に在り〈前編〉


Bこの世界が一枚の写真なら真我は……

この世界は三次元の立体の世界であるが、それを二次元の平面の世界になぞらえて(置き換えて)考えてみると、この世界と真我の関係が把握しやすくなる。
真我がこの世界に対して垂直方向に存在していることは既に述べたところだが我々にとって、平面に対する垂直方向はイメージできても、立体に対する垂直方向はイメージできないからである。
とはいえ、この世界を二次元の平面になぞらえると言ってもそれだけでは、抽象的過ぎてピンと来にくいしまた、芸もない。そこで、平面は平面でも一枚の写真というより具体的なものに、この世界をなぞらえることにする。その際、正確さにこだわるならば理屈としては、写真の大きさは無限大でなければならない。ここに言う世界という言葉には宇宙という意味も含まれており、宇宙の大きさは無限大なのだから。が、それだと今度は別の意味でイメージできなくなってしまうので、次善の策として、大きさに限りのある四角い写真ということにしておこう。
ではここで、四角い写真をイメージしていただきたい。置かれている場所は机の上でもテーブルの上でもお好きなように。写真に写っているのはあなたが日頃見慣れている風景とか場所とかでも構わない。そしてそこが、我々が今住んでいる世界だと思っていただきたい。
もし仮に我々が、写真という平面状に広がる世界の住人であったとしたならば、我々の真我に相当するのは一体何なのか、お分かりになるだろうか。それは、写真を真上から見ている我々の眼なのである。
従ってこの世界と我々の真我の関係は、一枚の写真とそれを真上から見ている我々の眼の関係になぞらえることもできる。それについて、考えてみよう。
もし仮に、我々が写真のような平面世界の住人であったとしたならば前述のごとく、肉眼に映せるのは線だけだが、それにも関わらず我々は、世界が平面状に広がっていることをちゃんと知っていることになる。立体の世界に住んでいる実際の我々のことを考えてみれば当然、そういうことになるであろう。立体の世界に住んでいる実際の我々は肉眼に平面しか映せないにも関わらず、世界が立体状に広がっていることをちゃんと知っているのだから。
そしてここからが重要なのだが、平面の世界に住んでいる者が、肉眼に線しか映せないにも関わらず、世界の本当の広がりを知っているとするならば、その世界を垂直方向から見ている意識の眼を想定しないわけには行かないはずである。。それが無かったら彼は、世界の本当の広がりを知り得ないのだから。先ほどの話に戻ると、写真を真上から見ている我々の眼こそが正に、その意識の眼つまり真我に相当するという次第。
平面ならぬ立体の世界に住んでいる実際の我々にとって、眼に映るのは線ならぬ面であるが、住んでいる世界が平面的であろうと立体的であろうと、世界の本当の広がりを知り得るのは世界を垂直方向から見ている意識の眼つまり真我を置いてない。
我々は世界の本当の広がりを知っている。この事実だけで、世界を垂直方向から見ている真我の存在が十分に裏付けられている。
この世界と真我の関係を、一枚の写真とそれを真上から見ている眼の関係になぞらえてみると、そのことがよく分かる。

Cこの世界と一体化してもいる我々の真我

さてそうは言うものの、前述のような「なぞらえ方」にも問題がないわけではない。真我の、この世界に対する超越的な側面ばかりが強調されがちだからである。あれだとまるで真我というものが、この世界の様々なモノを高所から傍観している高見の見物人でしかないかのように、受け取られやすい。
確かに真我には、そういう超越的な側面もあることはあるのだがその一方で、それとは全く矛盾するかに見えるもう一つの側面があるのだ。何かと言うと、『柳は緑、花は紅』でも触れたことだが、この世界もしくはこの世界の様々なモノと一体化している、という側面である。真我(意識の眼)には、それらを垂直方向から見ているという側面に加えて、それらと一体化している、という側面もまた備わっているのである。一枚の写真を真上から見ている眼に真我をなぞらえる限りでは、そこまでのことは伝わらない。
『柳は緑、花は紅』のおさらいになるが、この真我における世界やモノと一体化した側面というものは、我々が想念を脇に置いた時はじめて、あらわになる。
しばしば「眼が釘付けになる」とか「視線が釘付けになる」といった言い回しで表現されるこの体験においては、見る主体と見られる客体の対立が無くなっている即ち、向こうに見られているモノがあり、こちらに見ている自分があるといった形での、モノと自分との間の距離感が無くなっている。そこではモノが自分になり、自分がモノになっている。捉え方によっては、モノだけがあって(個体としての)自分は居ない状態とも言える。そこではモノは有りのままに見えているので、有りのままの事実だけがある状態と言われることもある。
例えば夕日でも花でも何でもいいのだが、文字通り何も想わずに見てみられるがよい。夕日や花だけがそこにはあって、それを見ている自分は居なくなるのではないだろうか。見終わった後でその体験を思い出す時あたかも、それとは離れた場所に、それを見ている自分が居たかのような感じがすることはあるかも知れない。だが体験のまっただ中においては、そんな感じはないはずである。
見終わった後でそんな感じがしがちなのは、夕日や花などと肉体の眼がそれぞれ離れた場所に存在しているという事実に影響されてしまうからでもあろう。たがモノを無心に見ている時というものは、肉体の眼はモノから離れていても、意識の眼とも言うべき真我はモノと一体化している。真我は赤い色を見ている時は赤い色に成っており、青い色を見ている時は青い色に成っている。
このように真我には、モノに対して垂直方向に存在しているという側面に加えて、モノと一体化しているという側面もまたあるのだが、一枚の写真を真上から見ている眼のイメージからは、前者は伝わってきても後者は伝わってこない。
真我を眼になぞらえたのは、真我の持つ見る働きを分かりやすく表現するためだったのだがそこには、今申し上げたような意味での不備な点もあったのである。
誰ですか、「それならば、その眼を棒みたいに前に伸ばして写真にピタッと付けたらいいんじゃないの」なんてマンガみたいなことをおっしゃるのは。でもよく考えてみると……真我をなぞらえるものとしては、単なる眼よりはその方がベターとは言えるかも知れませんね。眼が写真に対して釘付けになっているから。でも、ヘンであることに変わりはない。

D真我を何になぞらえるべきか

真我をなぞらえるものとして、少なくとも棒状の眼よりマシなのは、写真を真上から照らしているスポットライトの光である。そのイメージによっても、真我の二つの側面つまり、この世界に対して垂直方向に存在しているという側面と、この世界と一体化しているという側面を象徴的に捉えることが可能だ。つまり、光が真上から来ているところを見れば前者を連想することができるし、光が写真に当たっているところを見れば後者を連想することができる。それに、意識を何かに向けることを「意識の光を当てる」といった言い回しで表すことがあることからも分かるように、意識を光になぞらえることは一般的に定着しているようなところがあり、なじみやすいのも良い。
ついでだが、写真を真上から照らしているスポットライトの光がモノを見る意識=真我の象徴だとしたら、想念はさしずめその光を遮る煙といったところであろう。その意味は、お分かりですよね。想念を脇に置くと、「意識がモノと一体化する」あるいは「モノと一体化した意識が現れる」という消息をイメージで把握する上で、この光と煙を用いた「なぞらえ方」は一番ピッタリ来るのではないだろうか。
さてそれはそれとして、説明の便宜上これ以降は、真我の象徴として眼でも光でもない第三のものを使わせていただくことにする。が、忘れないでいただきたいのは、どんな象徴にも一長一短がある、ということである。真我を象徴するものとしては、眼や光にも独自の長所があるのでこれ以降も、参考のために覚えておいて損はないだろう。
では眼でも光でもない第三のものは何かというと実は、写真の上に乗っかっているガラスの立方体なのだ。立方体の材質をガラスとしたのは、意識という不可視のものをなぞらえるにはガラスのような透明なものの方が良いと考えたからである。
写真上のガラスの立方体をイメージする際、その底面は写真と同じ大きさにし、写真とピッタリ重ねていただきたい。写真は言う間でもなくこの世界の象徴であるが、この世界と真我が一体化していることを表すために、そうする必要があるのだ。
写真と重なるガラスの立方体の底面は真我がこの世界と一体化している側面を表し、縦に伸びるその本体は真我がこの世界に対して垂直方向に存在していることを表す。真我の大きさには果てが無いことを考えると本来ならば、その象徴であるガラスの立方体の高さは無限であるべきなのだが、それだとこれまたイメージができなくなってしまうので、有限なものにするしかない。
この世界と真我の関係を一枚の写真とその上に立つガラスの立方体の関係になぞらえることの長所は、前述の二つの側面が不可分の関係もしくは表裏一体の関係にあることを理解しやすくさせてくれる点にある。これについては、後で触れさせていただこう。
この世界が一枚の写真だとすると、我々の真我はその上に立つガラスの立方体になぞらえられるところから、この世界を水平の次元と呼び、我々の真我を垂直の次元と呼ぶこともできる。
Eに続く
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