真我は垂直の次元に在り〈前編〉


E悟りとは何か?

あなたの過去を振り返ってみて、「眼」または「視線」が釘付けになったのはどんな時だっただろうか。
それは、ある人にとっては、ひいきのサッカーチームの白熱した試合を見ている時だったかも知れない。またある人にとっては、崖っぷちにそった道を歩きながら、足元を見ている時だったかも知れない。
白熱した試合であれ、危険な場所であれ、それ以外のものに関心を向ける余地がない時の我々は、想うことを止めているのでモノが有りのままに見えている。あるいは逆に、モノを有りのままに見るために想うことを止めている。そうした場合も、我々の「眼」または「視線」はモノに釘付けになっているものだ言い換えると、我々の意識はモノと一体化しているものだ。
モノを有りのままに見ている時、そのモノと一体化する意識がどこから来るのか、誰もが気づくわけではないが、既述のようにそれは、モノや個体としての自分を超越した垂直の次元から来る。垂直の次元から来た意識がモノと一体化するのだ。モノと一体化する意識の出所は垂直の次元なのだ。決して、水平次元上の個体としての自分なんかじゃない。見られるモノが水平の次元に存在しているのは確かだとしても。
「我を忘れて見入る」という言葉もあるように、我々が真にモノを有りのままに見ている時、個体としての自分の存在を感じられなくなるのは、そのためである。
ここで余談を一つ。
知っておられる方は知っておられるかと思うが、この「垂直の次元」という言葉は私が考案したものではない。
以前、インターネットでその言葉で検索してみて分かったことは、その言葉は多くの場合、私がこれまで説明して来たような意味合いで使われているわけではなさそうだ、ということであった。例えば、潜在意識の世界を指して、その言葉が使われるケースもある。
私がこれまで説明してきたような意味合いで、その言葉を使っているように読み取れた人は私が知る限りでは、オショーという今は亡きインドの覚者だけである。今は亡きインドの覚者と言えばクリシュナムルティもそうだが、彼の場合は私の言う「垂直の次元」という言葉と同じ意味合いで「存在の四次元」という言葉を使ったことがある。
扱っている世界が同じという点では禅宗も、オショーやクリシュナムルティと同列に並べることができるが禅宗においては、私の言う「垂直の次元」という言葉の代わりにもっとシンプルな「別次元」とか「新次元」といった言葉がたまに使われることがある。潜在意識や心霊の世界に悟りがあるとは見ていない禅宗においてそれらの言葉が使われる場合、少なくともそれらが潜在意識や心霊の世界を指しているわけがないことだけは明白であろう。
結局何が言いたいのかというと、ここで取り上げている垂直の次元という概念は私の独創によるものではない、ということである。私はただ、その以前からあった概念を、より詳細に具体的に説明しようとしているに過ぎない。私の話に新しいところがあるとすれば、その一点だけであろう。
私の言う垂直の次元という概念にはじめて接して、奇異の念を抱かれた方やとまどいを感じておられる向きもあるだろうが、そういうことなので、投げ出さずに私の話にお付きあい願えればと思う。
話を戻そう。前述のようにモノを有りのままに見ている時というものは、垂直の次元に在る意識つまり真我があらわになっている時なのでもあるが、真我への気づきを意味する悟りが起こるのは正に、そのような時なのである。
といっても、真我があらわになりさえすれば必ず悟りが起こる、と申し上げているのではない。そうではなく、悟りが起こるためにはまずその前提として真我があらわになる必要がある、と申し上げているのである。
真我があらわになってはじめて、それに対する気づきを意味する悟りが可能になる。モノを有りのままに見ることと悟りとの間に関連があるのは、その一点による。
さて、それではここで、クイズと行きましょうか。
私は次にどんなクイズを出すでしょう? なんてんじゃなくて……
真我に気づくのは誰でしょう?
真我に気づくということは悟るということでもあるので、要するにこれは、悟るのは誰でしょう? ってことでもある。イメージしやすいように言い換えると、写真上のガラスの立方体に気づくのは誰でしょう? ということでもまたある。
悟るのは誰か、なんてこと皆さんは真剣に考えたことがおありですか。
世に出回っている悟りについての定義は私が申し上げているようなものばかりじゃないことは分かっているが、ある人の悟りの内容がいかなるものであろうとも、もし仮にですよ、悟ったのが個体としての自分つまり今まで通り自分であったとしたら、彼は依然として今までの自分を超えてないことになると思うが、どうだろうか。何となればそれでは、認識されたもの(気づかれたもの)が変化しただけで認識者(気づいたもの)は元のまま、ということであるから。
彼はそこで、以前認識できなかった新しい何かを認識したかも知れない。そしてそれは「これこそが本当の自分だ!」と言えるようなものでさえあるかも知れない。
だが客観的に考えてみれば分かることだが、それを認識した者が今まで通りの自分であったとしたら、彼は真の意味において「私は変化した」と言うことはできないはずである。なぜなら彼も含む我々全てにとって、私と言えるのは常に認識者のことであって認識されるもののことではないのだから。
そういうことを踏まえながら、話を続けよう。
前出の問いに対する答えの候補としては、次のようなものもあり得る。
四次元の広がりを持つ真我を認識できるのは五次元の存在だけなので、答えは五次元の私である。
ある次元の広がりを認識できるのはそれよりも一つ上の次元に存在するものだけである、という法則を当てはめる限りでは、その答えに咎(とが)はないかに見える。が、もしもその答えが正しいとすると、五次元の私という真我より大きい私の存在を認めなければならなくなるが、それはできない相談である。そもそも真我より大きい私というものは在ってはならないのだから。なぜって? もしも真我より大きい私というものが在るとしたら、真我と呼ぶに値するのはそちらの方ってことになってしまいませんか。
だが本当のことを申し上げると、前述の答えは間違っているので、そういう懸念は無用なのだ。
どういうことかと言うと実は、真我に気づくのは真我それ自身なのである。イメージしやすいように言い換えると、写真上のガラスの立方体に気づくのはガラスの立方体自身なのである。気づくと言うも見るというも、ここでは同じことなので、悟りは次のように定義することもできる。
「悟りとは真我が真我自身を見ることである」
ほとんどの方は、これを不可解に思われるに違いない。なぜなら、「真我が真我自身を見る」ということは言ってみれば、「眼が眼自身を見る」というのと同じことであるから。だがこの、眼が眼自身を見るにも等しい不可解なことが、悟りにおいては起こってしまうのである。
悟りというものが多くの人々にとって至難の業なのはひとえに、この不可解さの故であるかも知れない。つまりほとんどの人々は悟りというものがそんな形でやって来ようなどとは夢にも想っていないので、その固定観念に妨げられて、中々悟りが得られないものと考えられる。
なぜそういうことが可能なのか、ということについては、自分自身を見る働きがもともと真我に備わっているから、とでも申し上げるしかないだろう。ワシにそんなこと聞かんでよ、てな感じだ。
それを考えると、真我には二つの不可解な働きが備わっている、とも言える。一つは、今取り上げた自分自身を見る働きであり、もう一つは、前に取り上げたモノと一体化してモノを見る働きである。
この二つを見比べてみると、前者の延長に後者があると見なせないだろうか。もしくは、前者があるから後者もあり得ると考えられないだろうか。つまり、真我は自分自身を見ることができるからこそ、モノと一体化した時には、モノと一体化した自分自身を見ることもまたできるのではないか、ということ。
いずれにしても、真我における見る働きというものは、俗に言う見る働きなるものとはあまりにもかけ離れたところがあり、一般通念の枠の中で捉えようとしても無駄である。
ところで世の中には、私がこれまで述べてきたことと逆行するかのようなことをおっしゃる向きもある。
眼は眼自身を見ることができないのと同じように、真我は真我自身を見ることができない、というのがそれだ。
これは私の説と180度逆の説のように映るだろうが実際は、見るという言葉の解釈の違いがあるに過ぎない。つまり見るという言葉の意味が、ここでは狭く取られているのに対して、私の説においては広く取られている、というだけの話である。
具体的に申せば、ここで使われている見るという言葉の意味を分析すると「自分とは離れた場所にあるモノを対象(客体)として見る」といったものになるが、私が使った見るという言葉の意味はそこまで狭く限定されていない、ということである。だからその種の説に接しても、混乱しないでいただきたい。
そう言えば、今思い出した言葉がある。禅を世界に広めたことで有名な鈴木大拙の言葉で、「見が性で、性が見だ」というもの。これは見性(けんしょう)という、禅で使われる言葉が元になっている。そのまま訳すと「性を見る」となるが、意訳すると「自分の本性つまり真我(仏としての自分)を見る」となり、悟りと同義語としてこの言葉は使われている。くだんの「見が性で、性が見だ」という言い回しによって鈴木大拙は、見性するのは誰なのか? つまり悟るのは誰なのか? ということを示したのである。
この言い回しについて、ここで解説するのは控えようと思う。ここまで述べてきたことが解説がわりになっているはずだから。ここまで述べてきたことを参考にしながら、ご自分で、「見が性で、性が見だ」という言い回しの意味を考えていただきたいものである。

《真我は垂直の次元に在り〈前編〉》おわり

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