心を脇に置くとは

悟りへの唯一の道は心を脇に置くこと、というのが当サイトにおける私の一貫した主張です。が、ここに言う「心を脇に置く」の意味を理解するにはまず、心には二つの側面があることを押さえておく必要があります。
心には二つの側面があります。その一つは、「真我の見る働きを曇らせる存在」という側面です。
真我とは我々の内なるモノを有りのままに見る意識に他ならずまた、心とは想念の出所(あるいは母体)に他なりませんが、人は誰でも体験的に次のことを知っているはずです。我々は、心に想念を抱きながらではモノを有りのままに見ることはできない。この事実を思い出せば、心には前述のような側面があることはお分かりいただけるかと思います。
心のもう一つの側面は、「真我に見られる存在」という側面です。心には、「真我の見る働きを曇らせる存在」という側面の他に「真我に見られる存在」という側面もまたあるのです。理解の一助としていただくために、ここでちょっと、心と似たところのあるサングラスを思い浮かべていただきましょうか。
それは例えば、我々にとってサングラスには、「光をセーブしながら対象を見るための小道具」という側面の他に、「眺めて選んだり、他人が付けているのを眺めたりする対象」という側面がある、というのと同じようなことだとも言えます。つまり心には、真我という名の目玉(見る意識)をあたかもサングラスのように覆って対象を有りのままに見れなくするモノという側面の他に、もう一つ、真我によって見られる側にあるモノという側面もあるわけです。
で、「悟りへの唯一の道は心を脇に置くこと」と私が申し上げる時、その言葉に込められている意味は「それら二つの側面のうち、前者としての心を脇に置くことが悟りへの唯一の道ですよ」ということなのです。我々は前者としての心、すなわち「真我の見る働きを曇らせる存在」としての心を脇に置きながら、心そのものを見る対象とすることはできます。ちょうどサングラスを外して、他人のサングラスを眺めたり、店頭のサングラスを眺めたりすることができるのと同じように。そうした場合、心は我々にどのように見えるかと申せば、ただ有りのままに見える他ないのは言うまでもありません。
いずれにしても前述のようなわけで、「真我の見る働きを曇らせる存在」としての心を脇に置いて、肉眼に映るモノを有りのままに見ることも、心を有りのままに見ることも、どちらも悟りへの道たり得るわけです。

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