見る意識とは

悟りとは真我の発見であり、真我とは我々の中にある見る意識(あらゆるものを見ている意識)である、という風に『悟りとは』の中で、私は申し上げました。これは要約すると、「悟りとは自分の中にある見る意識の発見である」ということに他なりません。悟りとはとどのつまりは、自分の中にある見る意識の発見のことなのです。が、この定義は見方によっては次のような意味に取ることもできます。
我々は悟るまでは、自分の中にある見る意識を知ることができない。
これは未悟の人にとっては、前述のような調子で見る意識がどうのこうのと言われても、何を指してそう言っているのか見当がつかないってことでもあるでしょう。なので、「悟りとは自分の中にある見る意識の発見である」といった前述のような物言いは、未悟の人からしてみると意味が有って無いようなものだとも言えます。未悟の人に前述のような物言いをしても、いまいちピンと来ていただけないであろうことは察しがつきます。
さてそういうわけで、筋としては、「見る意識」の何たるかを皆さんにキチンと説明する義務が私にあると言えばありますが、これには困った問題が絡んでいます。簡単に申せば、「見る意識」の何たるかを言葉でキチンと伝えるのは不可能だってことです。が、考えてみればこれは当たり前のことだとも言えます。冒頭の話からもお分かりのように、「見る意識」の何たるかを言葉で伝えようとするのは言ってみれば、悟りの何たるかを言葉だけで伝えようとするのとほぼ同じことなわけですから。悟りの何たるかを言葉で伝えることの難しさに迫る難しさが、そこにはあります。私が今感じているのは、それがゆえのジレンマです。
「悟りとは自分の中にある見る意識の発見である」という前述のような物言いは、「見る意識」がどういうものであるのかを分かるように説明できてこそ意味を持ち得る。それぐらいのことは私も知っています。しかし一方では、その「見る意識」がどういうものかってことは、悟ってはじめて分かることであって、説明すれば分かるという類のものではない、ということもまた私は知っているのです。そういうジレンマがあるわけです。
いずれにしても「見る意識」というものに関して私にできるギリギリのことは、そういうものが我々の中には存在しているんだってことを、皆さんに認めていただくところまででしょうか。
さて、「見る意識」というべきものが我々の中に存在していることの最も分かりやすい証拠は次の事実であろうかと思います。
我々は心でも体でもないところで、住んでる世界が三次元の広がり(縦、横、高さの三方向への広がり)を持っていることを認識できている。
心でも体でもないところで我々にそれができている、と申し上げるのは、我々は心なり体なりで立体感もしくは三次元の広がりに対する感覚を得て、住んでる世界の広がりを認識しているわけではないからです。我々は心なり体なりで立体感を感じて「この世界は三次元の広がりを持っている」と認識しているわけではありません。心なり体なりで感じる立体感が、その認識の由来ではないのです。といってももちろん、かく言う私とて、我々が心なり体なりでモノに対する立体感を感じることがあるのは分かっています。が、私がここで申し上げたいのは、そんなものを通さなくても我々には、住んでる世界が立体的にできてることがチャンと見えている、ということなのです。
我々は全くの無心状態であっても、眠ってさえいなければ、住んでる世界の三次元の広がりをチャンと見ることができます。
この事実が何を物語っているか、お分かりでしょうか。それは、世界の広がりを見ることのできる何かが心や体とは別に、我々の中に存在しているってことに他なりません。我々の中には心や体とは別に、世界の広がりを見ることのできる何かが存在しているのです。だからこそ我々は、心でも体でもないところで世界の広がりを見ることができるのだと言えます。見られるものがあるってことは、見るものがあるってこと、それが道理というものです。
で、ここで申し上げたいのは、その我々の中に存在する世界の広がりの目撃者こそが前述の「見る意識」に他ならないってことです。言うまでもなくこの「見る意識」なるものは、世界の広がりだけを見る対象としているわけではありませんが、我々の中に在って世界の広がりを見ている主もまた「見る意識」なんだという風に考えれば、「見る意識」の存在を受け入れやすくなるに違いありません。
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