悟りとは

スマッシュコラムの中で、「悟りってなーに?取り合えずの答え」と題して、悟りの何たるかを超簡単に述べましたが、もうチョイ詳しく述べておこうと思います。専門的に踏み込み過ぎず、多方面に渡り過ぎず、初心者向けに簡単に、をモットーに。それが悟りの役に立つかどうかは別として、そういうのも一応必要かな、と。
さて「あの中」でも述べましたように、悟りとは簡単には本当の自分すなわち真我の発見のことですが、ではその真我とは何か? と申しますと、あらゆるものを見ている意識、というのが一番分かりやすい表現だろうと思います。
ここに言う「あらゆるもの」には文字通り、あらゆるものが含まれます。眼に映る色や形をはじめとする五感情報はもとより、心の中に生じる思考、感情、感覚、イメージ、といったものも含まれますし、瞑想中に出会うビジョンや体験なんかもまた含まれます。要するに、外的なものであろうと内的なものであろうと、我々に認識されるものは全て、その中に含まれるとお考えいただいて構いません。おもしろいかなと思うのは、「これが悟りか!」とおぼしき体験もまた、その中に含まれていることです。要するに何であれ、我々が認識しているものは一つの例外もなく、真我によって見られていることになります。というよりもむしろ、我々の中に、それらを見ている真我があるからこそ、我々はそれらを認識できるのだ、と言うべきでしょうか。
で、この真我の発見を意味する悟りは、どのような時起こり得るかと申しますと、たった一つしかありません。それは、心(顕在意識も潜在意識も)が脇に置かれた時です。何故なら心が脇に置かれた時のみ、真我は顕在化するからです。ただし、心を脇に置く方法は様々です。それは悟りへの道が一通りではないことをも意味しています。ちなみに心を脇に置くことが悟りへの道だとは言っても、悟ったら心の働きである思考や感覚や感情などとは無縁になるというものでもありませんので、そこは誤解なさいませんように。
悟りの何たるかを語る上で最も重要なのは、真我を発見するのは真我自身だということです。悟りすなわち真我の発見は、心と体から成る個体としての私においてではなく、真我自身においてなされるのです。
真我は見る意識なので目玉になぞらえることができますが、真我が真我自身を発見するというのは正に、目玉が目玉自身を見るにも等しい、不思議と言えば不思議な、不可解と言えば不可解なできごとだと言えます。そういうことが、悟りの中では起こるわけです。ただし、ここに言う「見る」は通常の、我々が知っているような意味における「見る」ではありません。体験しない限り知りようのない特殊な「見る」です。なんてったって、見るものと見られるものが同じであるような「見る」なのですから。従ってもしも、「見る」という言葉を通常の意味でのみ使うとしたら、真我は真我自身を見ることはできないという、逆の物言いもできるわけです。現に、そういう言い方がされることもありますので、混乱なさらないでください。

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