真我でモノを見るとは

『悟りとは』の中でも述べましたように、真我とは何か? という問いに対する最も分かりやすい答えは、「あらゆるモノを見ている意識」だと言えます。もっと簡単に申せば「見る意識」となりますが、この「見る意識」を表に出す唯一の方法は心を脇に置くことです。ただしそれには、眠ってない状態の中で、という当たり前と言えば当たり前の条件が付くのですけれども。
心が脇に置かれて、この真我という名の「見る意識」が表に出た時、モノは我々の眼にどのように映るものなのでしょうか。どのようにも、このようにも、ありませんね。モノはただ有りのままに見えるだけです。モノを有りのままに見ることを妨げる唯一の原因である心が脇に置かれただけですから。
例えば我々の前に赤いバラがあるとしますと、そうした中では、赤いバラが有りのままに見えるだけです。これは、赤いバラがそこにあるだけの状態だとも言えます。そしてそこには、見るものと見られるものの区別がありません。そこは、見るものと見られるものという区分けや観念が生じる前の世界です。だからそれって、細かいことを申せば、見るものと見られるものが一体化した状態っていうのとはまたニュアンスが違います。何かと何かが一体化するためにはその前提として、両者の間に分離がなければなりませんから。はじめから分離のないものどうしは一体化のしようもないわけです。一体感なんてものも当然そこにはありません。ただ説明の便宜上、その状態のことを、見るものと見られるものが一体化した状態という風に表現することはあるのですけれども。
話を戻しますが、そこにはただ赤いバラがあるだけです。他には何もありません。スッキリしています。それにまつわる思考はもとより、感覚(感じ)さえもありません。それは、赤いバラに対して我々が何かを感じる一つ前の段階すなわち、我々がそれの色と形を認識している段階なのですから。これが、真我という名の「見る意識」でバラを見ている状態です。心に訴えてくる何かを、そこに期待しないでください。
さて以上のように申し上げると、こういう問いを持たれる向きもあるかも知れません。では、真我を体現した者はバラの花を眼にしても、心に何も感じないのか?
が、そういうことでもないのです。真我という名の「見る意識」は、我々がバラの花を見て心に抱く感覚をも見る対象とすることができるのですから。もしも真我がバラの花ではなく、そちらの方を見る対象とした場合には、お察しいただけると思いますが、バラの花に対する感覚が有りのままに見えている、という状態になるわけです。

ここからはオマケです。せっかくこういう話が出てきたので申し添えておきましょう。
この真我という名の「見る意識」が中々私たちに発見されにくいのは正に、それが見る意識であるがゆえのことであります。見る意識って目玉のようなものですから、客体や対象にはなり得ません。というより、自分自身を客体や対象にできない、と言うべきでしょうか。つまり、真我という名の「見る意識」は自分自身を向こうに置いて眺めることができないわけです。我々にとって、これほど発見されにくいものがあるでしょうか。ありませんね。

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