真我の大きさは空間を超える
真我という見る意識、という呼び名は、真我に備わる「見る意識」という側面を強調したい時に私が使用する真我の別名です。この呼び名からもお分りいただけますように、真我には色々なものを見る働きがあります。色々なもの、というのは具体的に申せば、私たちの目や耳に入るものとか、私たちが心に抱く思考・感情・イメージ・フィーリングといったもののことです。要するに真我には、私たちがその存在を認識しているものを見る働きがあるということです。
さて、それではここで質問ですが、皆さんは真我という見る意識が見ることのできるものの中で最も大きなものは何だと思われますか? 東京ドームだとか、皇居だとか、俺んちの庭だとか、言わないでくださいね。
皆さんに答えを聞いて回るわけにも行かないので早速申し上げますが、その答えは、空間です。真我という見る意識が見ることのできるものの中で、大きさにおいて空間に勝るものはありません。
どうしてこんな話をしたのかと言いますと、その空間を見ることのできる真我という見る意識はそれよりも大きい、ということに思いを馳せていただきたいからです。
空間を見ることのできる真我という見る意識は空間よりも大きい。その意味を、今は亡きインドの覚醒者オショーは次のようにうまく説明してくれています。
あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方より大きいのだ。
出典:「信心銘(414ページ)」著者/ラジニーシ 訳者/スワミ・パリトーショ 発行所/(財)禅文化研究所
悟りのぶっ飛んだ側面
空間よりも大きい真我という見る意識、その真我という見る意識が自分自身を見るという出来事のことを悟りと言います。それを考えると、悟りというものがいかにぶっ飛んだものであるか、お察しいただけるのではないでしょうか。
もちろん悟りには、よく言われておりますように、ごく当たり前のことという側面もあることはあります。が、前述のような意味でのぶっ飛んだ側面もまた悟りにはあるのです。
ごく当たり前のことという側面とぶっ飛んでいるものという側面、この相反する二つの側面を併せ持つのが悟りなんだってことですね。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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