真我という見る意識は空間の外側に視点を持つ
ひょっとしたら皆さんの中には、前回の話を読まれて次のような疑問を持たれた向きもあるかも知れません。
真我という見る意識は一体どの位置から我々の目に映るモノなどを見ているのか?
どうでしょうか。そう言われてみればハッキリと意識してなかったけど、無意識のレベルでそういう疑問を持っていたかも……なんて方もおられるのでは。
いずれにしてもここからの話は、意識的にせよ無意識的にせよ前述のような疑問を持っておられた方たちに向けてのものです。
真我という見る意識は一体どの位置から我々の目に映るモノなどを見ているのか?
この問いにお答えするために、まずはこんな話から入らせていただきましょう。
我々の目に映るモノ、あるいは我々が認識しているモノを仮に一枚の写真上の映像に例えるとしたら、真我という見る意識はその写真の中のどこかからではなく、それの外側から写真上の映像を見ていることになります。
この例え話に出てくる一枚の写真というのは、この空間(我々の認識の中にあるこの空間)の象徴であり、この例え話によって私が伝えたいのは次の事実です。
真我という見る意識はこの空間の中のどこかからではなく、この空間の外側から我々の目に映るモノなどを見ている。
垂直の次元という概念
「この空間の外側」というのをより具体的に言い直すと、「この空間に対して垂直な方向」となります。「この空間に対して垂直な方向」ですね。真我という見る意識は「この空間に対して垂直な方向」から、我々の目に映るモノなどを見ているわけです。
これについては、人が写真上の映像を見ている時その目はどの位置にあるか考え合わせてみると、合点がゆくのではないでしょうか。
人が写真上の映像を見ている時その目は当然ながら、写真の真上つまり写真に対して垂直な方向にありますよね。
それと同じように、我々の目に映るモノなどを見ている時の真我という見る意識もまたこの空間に対して垂直な方向にある、というわけです。
一枚の写真(二次元)に対する垂直な方向は誰でもイメージできるが、この空間(三次元)に対する垂直な方向は誰にもイメージできない、ということもあって、「そんなものの存在」を信じられないという向きもあるかも知れませんが、最近はなんとなんと物理学の世界でも、余剰次元などという言葉を使って「そんなものの存在」に言及する学者が出てきていることを付け加えておきましょう。
そう言えばオショー(ラジニーシ)は真我の在りかを「垂直の次元」と表現することがありましたが、その「垂直の次元」という言い回しは、前出の“この空間に対して垂直な方向”にある領域を指している、という風にも見ることができます。
まあ、その言い回しに関しては他の解釈もできることはできるのですが、そういう見方も可能であるということですね。
“この空間に対して垂直な方向”にある領域、という意味合いもその「垂直の次元」という言い回しから見て取れますので、その点を踏まえてこれからは、真我の別名の一つに「垂直の次元の意識」というのを加えることにしたいと思います。
私としては、この真我の別名の一つである「垂直の次元の意識」というネーミングを通して、あなた方に次のことに思いを馳せてもらいたいのです。
真我という見る意識はこの空間に対して垂直な方向に存在しており、その位置から我々の目に映るモノなどを見ている。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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