真我という見る意識は現実離れして現実に密着してもいる
真我はこの空間に対して垂直な方向に存在しているという話を前回いたしました。こういう話をいたしますと、真我という見る意識がいかにも我々の日常生活からかけ離れた存在であるかのような印象を持たれかねませんけれども、そうとばかりは言い切れません。
そうとばかりは言い切れないのは何故か?
真我という見る意識は、私たちが今目にしているモノなどとピタリと一つにもなっているからです。言い換えれば、私たちが今目にしているモノなどに「釘付け」にもなっているからです。
悟りに到った人は花を見れば花になり、山を見れば山になる、といったことがよく言われますが、この手の話にもそのことが示されています。
そこに着目すれば、真我という見る意識は私たちの日常生活とまるきり接点が無いわけではないことに思い至るでしょう。
この空間に対して垂直な方向に存在していると同時に、私たちが今目にしているモノなどとピタリと一つになってもいるもの、それが真我という見る意識なのです。より抽象的に申せば、現実離れしていると同時に現実に密着してもいるもの、それが真我という見る意識なのです。
その消息を視覚的なイメージで理解する手立て
このあたりの消息を視覚的なイメージで理解したかったら、先ほどの話に出てきた一枚の写真の上にガラスの立方体が立っているところを想像してみてください。ガラスの立方体の底面と写真は同じ大きさで隙間なく重なっていること、という点に留意しながら。
ここに言う一枚の写真がこの空間の象徴なら、その上に立っているガラスの立方体はもちろん真我という見る意識の象徴に他なりません。
このガラスの立方体が、「写真上の映像とピタリと一つになっていること」と「写真に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしているのはお分りいただけると思います。
ちょうどそれと同じように、真我という見る意識は、「我々の目に映るモノなどとピタリと一つになっていること」と「この空間に対して垂直な方向にあること」の二つを同時に満たしている、というわけです。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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