ご質問
……(記事の中で)一つだけ疑問を感じた箇所がありましたので、お尋ねいたします。
「我々の眼は平面しか見ることができない。あるいは我々の眼は平面しか映すことができない。」とありますが、果たしてそうでしょうか?
立体写真を見る原理と同じく、両目の間の開きにより、左右の眼で捉える形状の角度が微妙に異なるがゆえに、そのズレ具合から遠近感を把握しているのだと思います。ちなみに、片目をつむってカメラと同じような単眼で見ると、当然平面的にしか見えません。
○○さん(私のこと)の真意が分かりませんので、一概に否定しているわけではありませんが、その辺のところをご説明いただければ幸いです。
補足ですが、あまりにも遠い物体、たとえばお月様等を見た時は、左右の眼で捉えた角度の変化はほとんど生じませんので、球体であることが分かっているにもかかわらず、人の眼では平面としてしか認識できません。意識を働かせても球体として認識できる方はいないと思います。
かつて天動説が信じられていた時代に、人間の意識では壮大な星々の遠近が認識できなかったため、それらが天空の平面に張り付いているものと解釈されていたことと同じだと思います。
ご質問への回答
お答えする前に私の方からも質問させていただきたいのですが、我々は片目をつむっていたら眼に映る景色の三次元の広がりを認識できないでしようか? いや、この質問は少し抽象的なので、次のようなより具体的な質問に置き換えましょう。我々は片目をつむっていたら例えば、道をちゃんと歩くことができないでしようか?
ここに言う「ちゃんと歩く」の意味は、道の途中にある障害物や建物などに体をぶつけることなく、右か左に曲がるべき角ではちゃんと右か左に曲がりながら歩くということです。如何でしょうか。と言っても、あなたにお尋ねするまでもなく、我々は片目をつむっていても道をちゃんと歩けることは明らかですよね。
我々は片目をつむっていても道をちゃんと歩けるという事実が示してもいるように我々は、片目をつむっていても眼に映る景色の三次元の広がりを認識することはできるものです。
もちろん、あなたが言われるように我々は、片目をつむっていたら眼に映る景色に遠近感を感じることはないでしょう。が、そのような中にあってもなお我々は、眼に映る景色の三次元の広がりを認識することができるわけです。
そのような中にある時の我々の思いを強いて言語化するとしたならば、「今眼にしている景色は遠近感こそ感じられないものの、三次元の広がりを持っている」といったものになるでしょう。
つまり、景色に遠近感を感じられないからといって、景色に三次元の広がりが無いってことにはならないということを我々はちゃんと知っているのです。
このように申し上げると、両目で景色を見ていた時の記憶に照らして我々はそのように思うのでは……といった感想を持たれる向きもあるかも知れません。が、例えば生まれた時から片目のみ開いている人であっても、眼に映る景色の三次元の広がりを認識できることは、彼らもまた道をちゃんと歩けることからも分かります。
今の話とは逆に我々は、立体写真や3Dテレビなどを通して「平面でありながら遠近感のある画像」を眼にしても、そこに三次元の広がりを認識することはありません。三次元の「広がり感」を強く掻き立てられることはあるとしてもです。我々にとって、三次元の「広がり感」や遠近感の有無と、三次元の広がりに対する認識それ自体の有無は異なるわけです。
我々は三次元の「広がり感」や遠近感によって眼に映る景色の三次元の広がりを認識しているのではないとすると、では一体何が我々に、眼に映る景色の三次元の広がりを認識させているのでしょうか。
私の記事を読んでおられる方は既にご承知でしょうが、真我という名の(もう一つの)眼がそれです。より詳細に申せば、三次元の広がりを認識する働きのある真我という名の眼がそれです。
この真我という名の眼は心でも体でもありませんので、そこにおける三次元の広がりの認識には、心あるいは体に特有の感じる要素は含まれておりません。そこにあるのは、如何なる種類の感覚(感じること)も伴わない三次元の広がりの認識です。
この、感じることを伴わない三次元の広がりの認識のあり様を強いて解説するとすれば、眼に映る景色が三次元の広がりを持っていることを「ただ知っている」という形での認識ってことになるでしょうか。
感じることによってではなく、考えたりイメージしたりすることによってでもモチロンなく、そのことを「ただ知っている」という、この認識のあり様は言葉で説明すると難しそうですが、自分自身の中にある三次元の広がりに対する認識のあり様を見てみれば誰でもピンと来るのではないでしょうか。
我々は眼に映る景色が三次元の広がりを持っていることを「ただ知っている」んだってことがお分かりになりませんかね。
この真我における「ただ知っている」という形の認識は、感じたり考えたりイメージしたりする心の働きを止めてもなお、我々の中に残っている認識ということもできます。これは一般的な認識という概念には当てはまらないものなので本当はカッコ付きの認識ってことになろうかとは思いますが。
ちなみに心の働きを速攻で止める便法は息を止めることですが、我々が息を止めたままでも道をちゃんと歩けるのは、すなわち感じたり考えたりイメージしたり想像したりすることの助けを借りなくても道をちゃんと歩けるのは、前述のような機能を備えた真我が我々にあるからだと言えます。もちろん、やり過ぎたらブッ倒れますけれども。
このように、我々の三次元の広がりに対する認識は心でも肉眼でもない真我から来ているのですが、ここで補足しておかねばならないのは、それでもその認識は肉眼の制約を受けないわけではないということです。言い換えれば、それでもその認識は肉眼の機能の限界に影響されないわけではないということです。
その実例を挙げるならば、ご質問の中にもありましたように、お月様のようなあまりにも遠いところにある物体は我々には平面的にしか見えませんしまた、壮大な星々の遠近を我々は知ることができません。
これは、肉眼という道具を使う以外に景色を見る術(すべ)を持たない我々の宿命であって、前述の話とはまた別の話だと思うのですが如何でしょうか。
それから、真我の三次元の広がりを認識する働きが肉眼という道具の限界に影響されることがあるとは言え、少なくとも我々は、お月様や夜空の星々が自分から(遠く)離れた位置にあるってことだけは分かりますよね。
これは、前述のような場合でも、真我に備わるその働きが肉眼という道具の限界によって百パーセントはばまれているわけじゃないってことを意味しております。
回答の補足(ついでの話)
それから、これはご質問とは直接的には関係の無いついでの話ですが、我々にとって目が二つあることの最大のメリットは、モノの位置を、目が一つしか無い場合よりも正確に把握できるという点にあると思います。三次元の広がりを認識させるためにではなく、モノの位置を正確に把握させるためにこそ、天は我々に目を二つ与えたのではないでしょうか。
もう一つついでの話ですが、三次元の広がりは我々の肉眼に映る景色のみならず、我々が心に思い描く景色にもあるのはご存じの通りですが、この我々が心に思い描く景色の三次元の広がりを認識しているものもまた真我という名の眼です。
<最後に>
以上がご質問に対するお答えですが、これを読まれてまた新たな質問や疑問が出て来たら、ぜひお知らせください。余談ですが、今回お話ししたことは、ご質問をいただくまでは私自身も知りませんでした。つまり、ご質問に触発されて今回お話ししたことが私の中から新しく引き出されたということです。
その意味で、ご質問をいただくことは私にとって有り難いことだと言えます。ゼニを出す気はありませんけれども。ということで、ご質問の追加はご遠慮なくお願いします。
※次回は、これを受けての前出の読者様からのお返事を掲載させていただきます。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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