過去記事に対するご質問への回答(下)/垂直の次元の意識⑦

・私の回答を受け取った読者様からのお返事

この記事は一つ前の記事(下に表示されているやつ)の続編です。

過去記事に対するご質問への回答(上)/垂直の次元の意識⑥
人が三次元空間の広がりを認識できるのは真我という名の眼のおかげという私の見解に突っ込みきたので答える。

ご存じのように一つ前の記事では、当方の過去記事に対する読者様からのご質問と、それに対する私の回答を掲載させていただきました。が、このやりとりにはまだ続きがありましてその後、私の回答を受け取ったくだんの読者様から次のような返事をちょうだいしました。

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……最初の質問にだけお答えさせていただきます。

⇒「我々は片目をつむっていたら、眼に映る景色の三次元の広がりを認識できないでしょうか?」

できません。できないからこそ、このような質問をさせていただいた次第です。

私は一年ほど前に左目に眼底出血がありまして、一週間ほど眼帯をかけて車の運転をしていたことがあります。

遠近感が全くつかめず、視野に入る物体の大小でしか距離感を把握することができないため、車間距離の確保とかにすごく神経を使って、非常に疲労困憊したことは忘れることができません。

一週間後に眼帯が取れた時には、それはもう「遠近感がスッキリ、ハッキリ!」そのことの有り難さに、心底震えんばかりの感謝感激をおぼえたことは、忘れられません。

補足として。あなたのおっしゃりたいことはよく分かるのですが、空の次元というか非物質的次元からの観点を、物質次元の肉眼からの観点に、移し替えて説明しようとすることは基本的に無理があるんじゃないでしようか?

言い換えれば、悟りの世界でのモノの見え方を、至らぬ凡人の現象界でのモノの見え方に、置き換えて説明しようとすること自体が、私には不可能と思えますし、むしろ混乱を招くおそれがあると思います。できればあのような強引な喩えなどは、無い方がよっぽど理解しやすいです。

お返事に対する私の回答

以下は前出のお返事に対する私の回答です。

「三次元の広がりの認識」という言葉を私は、肉眼による遠近感の把握という意味に取ってはいません。その上で「我々は片目をつむっていても、眼に映る景色の三次元の広がりを認識できる、あるいは、眼に映る景色が三次元の広がりの中にあることを認識できる」と申し上げているわけです。

それを解説する手がかりとするために、考えていただきたいことがあります。それは次のようなものです。

あなたが述べられていたような、ああいう「片目だけによる車の運転」をしている時、人はその今の状況が三次元空間の広がりの中で進行していることを認識できない(知り得ない)ものなのでしょうか?

この話題にもう関わりたくなさそうなこともおっしゃっていたあなたにご返事までは要求しませんが、そこのところ考えてみていただきたいなとは思います。私の見解は次の通りです。

ああいう「片目だけによる車の運転」をしている時でも人は、その今の状況が三次元空間の広がりの中で進行していることをリアルタイムで認識できている(知り得ている)。

もしもあなたが「いや、それは違う」とおっしゃるのであれば、私とあなたの間には、話を先に進める上での共通の基盤がなくなってしまいますね。が、まさかそのようなことは無かろうと思います。

繰り返しますが、ああいう「片目だけによる車の運転」をしている時でも人は、その今の状況が三次元空間の広がりの中で進行していることをリアルタイムで認識できて(知り得て)いるものです。遠近感が失われているにも関わらずです。

遠近感が失われ、四苦八苦しながら車を前に進めているという、自分の今の状況が二次元ならぬ三次元空間の広がりの中で進行していることを彼は、リアルタイムで認識できているわけです。言い換えれば彼らの認識の中で、自分が今身を置いている空間が平面的なものになっているってことは無いわけです。

もちろんそこでは、片目をつむって道を歩いている時などに比べて正確で迅速な遠近感の把握が求められ、せかされもするので、その当たり前の事実も後ろに隠れてしまいがちではあるのですけれども。

これは遠近感が無くなるってことと、三次元空間の広がりに対する認識が無くなるってこととは別の事柄であることを物語っています。裏を返せば当然それは、遠近感があるってことと、三次元空間の広がりに対する認識があるってこととは別の事柄だという話になります。

遠近感と三次元空間の広がりに対する認識にはいくつかの違いがあります。例えば前者には感じる要素が含まれているのに対して後者には感じる要素が含まれていないこととか、前者が肉体上の出来事であるのに対して後者は真我における出来事であることとか。が、何といっても、両者の最大の違いはその出所です。

遠近感の出所は三次元空間という枠の中、あるいは現象界・物質次元の中にある肉体であるのに対して、三次元空間の広がりに対する認識の出所は三次元空間という枠の外あるいは現象界・物質次元の外にある真我です。

三次元空間の枠の外という概念の無い人は、後者を「私じゃないどこかから、どからともなく」来るという風に受け止めるかも知れません。いずれにしてもそういうわけで、両者を混同してはなりませんし、少なくとも私は混同したことはありません。

この三次元世界を一つのスクリーンだとするならば、この三次元世界の中に居る自分はスクリーン上の登場人物ということになります。今そのスクリーン上に、片目に眼帯をかけて車を運転している自分が映し出されていると思ってください。その自分は片目しか使えないので遠近感が掴めず、四苦八苦しながら車を運転しています。

仮にそんな私がスクリーン上に居たとした場合、その様子を観客席の位置から見ている非物質的な目玉のような存在が真我だと言えます。肉眼とは別にそんな真我という名の目玉があるからこそ我々は、遠近感を取れずに四苦八苦しながら車を運転している最中も、今自分の置かれている状況が三次元空間の中にあることを認識できるわけです。

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