悟り=真我が自分自身を見ること/真我とは? 悟りとは?(上)

※これからお届けする『真我とは何か? 悟りとは何か?(上)(中)(下)』は当ブログの管理人のYOUTUBE動画『真我とは何か? 悟りとは何か?』のナレーションテキストを記事化したものです。記事化に当たっては、見出しをつけ、部分的な添削をほどこしました。

ここでは、真我の何たるかをできるだけ網羅的に語りつつ、その流れの中で悟りの何たるかにも触れるという、ちょっと欲張りなコンセプトでお話をさせていただこうと思います。

真我とは内なる見る者のこと

さて、今は亡きインドの覚醒者オショー・ラジニーシがのこした言葉の中に、こういうものがあります。

「内なる見る者は、あなたの不死性に他ならない」

「内なる旅で出会うものは、どれも自分ではない、あなたはそれを目撃する者だ」

「見るものだけが存在する」。

いかがでしょうか? これらの言葉からもお察しいただけるかと思いますが、私たちにとっての本当の自分、すなわち真我とは私たちの内なる目撃者、あるいは見る者のことだと言えます。

この私たちの内なる目撃者、あるいは見る者のことを、ここでは真我という見る意識、という風に呼ばせていただきますが、この真我という見る意識は、私たちがその存在を認識できるものすべてを見る対象とします。

私たちがその存在を認識できるもの、というのは言い換えれば、それがそこに在ることが私たちに分かるもののことであり、例えば私たちの五感でキャッチされるもの、すなわち私たちが見たり、聞いたり、味わったりするものなどもそうですし、また例えば、私たちの心に生じる思考、感情、フィーリング、イメージなども、そうです。

私たちが、見たり、聞いたり、味わったり、考えたり、感じたり、イメージしたりしたことなどを見ている者、すなわち、それがそこにあることが私たちに分かるものすべてを見ている者、これが真我という見る意識なんですね。

悟りとは真我が自分自身を見る不思議な転回

で、ここが大事なところなのですが、この真我という見る意識が、ある時、何かの拍子に、何をとちくるったか、というのはシャレですが、自分自身、つまり真我という見る意識自身を見るという不思議な転回が起こることがあります。これを悟りと言います。

これというのは、ちょうど目が目自身を見るにも等しい、私たちの常識ではとうてい考えられないような、ある種の逆転現象です。

皆さんは、自分の顔についている目が、目それ自身を見るなんてことは想像できないはずです。が、それに類する想像不可能なことが、私たちの内なる目すなわち、真我という見る意識においては、なぜか起こることがあるんですね。繰り返しになりますが、それを悟りというわけです。

ちなみに、クリシュナムルティが遺したよく知られた言葉として「見るものは見られるものになる」というのがありますが、これは、前述の、真我という見る意識が真我という見る意識自身を見るという、不思議な転回を表現した言葉と解釈することもできます。実は、この言葉はもう一つ別の解釈も可能なのですが、それについてはまた後で触れることにいたしましょう。

“真我は自分自身を見ることはできない説”との整合性

以上のような次第で、私の悟り観によれば、真我という見る意識が自分自身を見ることが悟り、ということになるのですが、悟り界隈には、この私の悟り観に逆行するかのごとき物言いもないではありません。それは次のようなものです。目は自分自身を見ることができないのと同じように真我という見る意識は自分自身を見ることができない。

いかがでしょうか? この手の物言いというのは、どう見ても、前出の私の悟り観の逆を行っているように皆さんには映ることでしょう。

が、私に言わせれば、この、目は自分自身を見ることができないのと同じように、真我という見る意識は自分自身を見ることができない、という物言いと、真我という見る意識が自分自身を見ることが悟りである、という私の悟り観とは、全然逆のほうを向いてはいない、というか、全然矛盾していないんですね。なぜだと思われますか?

その理由は、前者の中で使われている「見る」という言葉と、後者の中で使われている「見る」という言葉とでは、その意味合いが全然違うからなのです。どう違うのかといいますと、こんな風に違います。

前者の中で使われている「見る」という言葉の意味するものは、対象化を伴う見る、すなわち、見るものはこちらにあり、見られるものはあちらにある、という構図を持つ見るです。私たちにおなじみの、私たちがよく知っている見るですね。

それに対して、後者つまり、私の悟り観の中で使われている「見る」という言葉の意味するものは、対象化を伴わない見る、すなわち、見るものはこちらにあり、見られるものはあちらにある、という構図を持たない見るです。私たちになじみのない、私たちが全然知らない見るですね。もちろん、覚醒者は例外ですけれども。

このように、前者の中で使われている「見る」と、後者の中で使われている「見る」とでは意味しているものが全く違うために、前者と後者が矛盾することはない、と言えるわけです。

悟りの中でのみその存在が明らかになる「特殊な見る」

ここまでの話からもお分かりいただけますように、真我という見る意識が自分自身を見ることが悟りである、という風に私が申し上げる時、ここで使われている「見る」という言葉の意味するものは、一般的に使われている「見る」という言葉の意味するものとは違います。

それは、「対象化を伴わない見る」、すなわち、見るものはこちらにあり、見られるものはあちらにある、という構図を持たない見る、もっと分かりやすく申せば、見るものと見られるものが、同じ場所にある「見る」なのです。

この見るは、悟りの中ではじめて、その存在が明らかになる、特殊な見るです。なのでこれは、覚醒者、つまり悟っている人を除いては、誰にもなじみのない、誰もが知らない「見る」だとも言えます。悟りの何たるかは悟ってみるまで誰にも分からない、と言われる所以ですね。

悟りへの途上にあるかたは、とりあえず今は、訳が分からなくても、そういうものがあるのだということだけ、心に留めておいていただきたいと思います。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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