真我・三次元空間を俯瞰する者/真我とは? 悟りとは?(中)

三次元空間を俯瞰できる場所にある真我

真我という見る意識には大きな二つの側面があります。その中の一つは、三次元空間を俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在しているという側面。もう一つは、見ているものにクギヅケになっているという側面です。

真我という見る意識が持つこれら二つの側面のひとつひとつに、これから焦点を当ててみたいと思います。まずは、その中の一つ目のやつ、すなわち、三次元空間を俯瞰できる場所、言い換えれば、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在している、という側面から見てみましょう。

真我という見る意識が、そういう側面を持っているということを理解するための第一歩は、まず次の事実を押さえておくことです。

真我という見る意識が見ているものの中には、三次元空間そのものも含まれている。もしくは、真我という見る意識は、三次元空間そのものをも見る対象としている。

いかがでしょうか? これって、考えてみれば、当たり前のことではないでしょうか。なぜなら私たちは、三次元空間の存在を認識できているのですから。

私たちは、三次元空間の存在を認識できています、もしくは三次元空間がそこにあることを知り得ています。これは、取りも直さず、三次元空間もまた、真我という見る意識、すなわち、私たちの内なる無形の目によって、見られている、ということに他ならないわけです。

私たちが、その存在を認識できているもの、もしくは、それがそこにあることを知っているものの中で、真我という見る意識によって見られていないものなどないのであり、三次元空間とて、その例に漏れるものではないんですね。

そこを踏まえた上で、オショー・ラジニーシの次の一文に触れてみてください。文中に、空間という言葉が出てきますが、これが私たちが今身を置いている空間、すなわち三次元空間を指していることは、言うまでもありません。それでは、行きましょう。

大空を見れば、その空は広大だ。だが、それを見る者、その目撃者はもっと大きい。
さもなくて、どうしてその空を見ることができよう。……。

見る者は見られるものより大きくなければならない。それしかありようはない。……。

あなたは空間を見ることができる。あなたは時間を見ることができる。それなら、あなたの中にいるこの見る者は、その両方より大きいのだ。

引用元:『信心銘』414p/著者:(オショー)ラジニーシ/発行所(財)禅文化研究所

少し意訳が入りますが、要するに、オショーは、この一文を通して、こういうことを言っているわけです。

私たちの内なる見る者、すなわち真我という見る意識が、三次元空間の広がりを見ることができるということは、それが三次元空間よりも大きい、ということを意味している。見る者は、見られる者よりも大きくなければならないからである。

真我という見る意識が見ることのできるものの中で、一番大きいものは、三次元空間に決まっていますが、その三次元空間の広がりを見ることのできる真我という見る意識は、三次元空間よりもさらに大きいんだ、という風に、彼は言っているんですね。

が、ここでハッキリさせておきたいのは、「真我という見る意識は三次元空間よりも大きい」とは、具体的にはどういうことなのか? という点です。

「真我という見る意識は三次元空間よりも大きい」、とは、具体的には一体どういうことなのでしょうか? その答えは、次の通りです。

真我という見る意識は、三次元空間を俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在している。これが、「真我という見る意識は三次元空間よりも大きい」の具体的な意味なんですね。

従って、こんな風に言うことができます。真我という見る意識が、三次元空間の広がりを見れるのは、真我という見る意識が、それを俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在しているからである。

真我が三次元空間を俯瞰できる場所にあることを視覚的・感覚的に理解する方法

真我という見る意識は、三次元空間を俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在しているという、この消息を視覚的・感覚的に理解する、よい方法があります。それを、これから申し上げます。

まず、テーブルのような水平なものの上に置かれている一枚の写真をイメージしてみてください。この一枚の写真は、三次元空間の象徴です。三次元空間をここではあえて、イメージしやすいように、二次元の広がりを持つ一枚の写真になぞらえるわけです。

で、その一枚の写真をイメージできたら、続けて、その一枚の写真を真上から見ている一個の目玉をイメージしてみてください。ゲゲゲのキタローというマンガに出てくるメダマオヤジを連想される向きもあろうかと思いますが、この一個の目玉は、真我という見る意識の象徴です。

前出の、一枚の写真が三次元空間の象徴なら、それを真上から見ている、この一個の目玉は、真我という見る意識の象徴なんですね。

そうしますと、では、その一枚の写真に映っているものって何? という話になるわけですが、それはもちろん、三次元空間の中にあるものたち、すなわち、私たちが見たり聞いたりするものとか、私たちの心に生じる、思考とか感情といったものの象徴、ということになります。

が、ここで大事なのは、前述のような意味合いを持つ一枚の写真と、それを真上から見ている一個の目玉、この二つです。写真に映っているもののことは、とりあえず今は横に置いておきましょう。

この二つをイメージすることを通して、皆さんに、理解していただきたいことがあります。それは、次の点です。その目玉が、写真の広がりを見れるのは、その目玉が写真を俯瞰できる場所、すなわち、写真の真上に存在しているからである。

これは裏を返せば、こういうことでもあります。もし仮に、その目玉が、写真を俯瞰できる場所ではなく、つまりそれの真上にではなく、それの内側に存在していたとしたら、その目玉は、写真の広がりを見ることができない。それはそうですよね。

写真の内側に存在している目玉に、どうして、写真の広がりを見ることなどできるでしょうか。写真の広がりを見るためにはどうしても、その目玉は、写真の真上、言い換えれば、写真よりも大きな広がりを持つ空間に存在していなければならないのです。そこ以外に、写真を俯瞰できる場所はないのですから。

これが理解できれば、これと類似性のある、次の物言いを理解するのも、そう難しいことではないはずです。

真我という見る意識が、三次元空間の広がりを見れるのは、真我という見る意識が、三次元空間を俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在しているからである。

真我という見る意識には、「三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在している」という側面があることを、先ほど申し上げましたが、ここまでの話を通して、その意味合いが、視覚的・感覚的にお分かりいただけたのではないでしょうか。

三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間=量子力学の余剰次元

ちなみに、ご存じのかたはご存じのように、ここに言う「三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間」なるものは量子力学で言われている余剰次元に該当します。

量子力学では、二次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間として三次元空間があるのと同じように、三次元空間よりも一つ上の広がり、もしくはそれを超える広がりを持つ空間というものもあり得る、と考えられており、余剰次元というのは、それにつけられた名称に他なりません。

なので、ここに言う「三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間」なるものは、その量子力学で取りざたされている余剰次元のお仲間だと言えるわけです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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