見ているものに釘付けでもある真我/真我とは? 悟りとは?(下)

真我の、見ているものに釘付けになっているという側面

繰り返しになりますが、真我という見る意識には、三次元空間を俯瞰できる場所、 すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在しているという側面があります。これが、真我という見る意識の、一つ目の側面ですね。

で、既に申し上げておりますように、真我という見る意識には、それと併せて、次のようなもう一つの側面もあります。見ている対象にクギヅケになっている。

ここからは、その、真我という見る意識が持つ、見ている対象にクギヅケになっているという側面に焦点を当ててみたいと思います。

ここに言う「見ている対象にクギヅケになっている」は、「見ている対象とピタッと一つになっている」あるいは「自分と見ている対象の間の境界がなくなっている」と言い換えても構いません。

前にクリシュナムルティの「見るものは見られるものになる」という言葉を取り上げましたが、実は、これは捉えかたによっては、そのあたりの消息を言い表した言葉と見ることも可能です。

真我のそういう側面を視覚的・感覚的に理解するためのイメージワーク〈その一〉

真我という見る意識には、見ている対象にクギヅケになっている、という側面があることを視覚的・感覚的に理解していただくために、ここでもう一度、皆さんの心に再現していただきたいのは、あの一枚の写真と、それを真上から見ている一個の目玉のイメージです。

既に分かっておられますように、このイメージ上の一枚の写真は、三次元空間の象徴であり、それを真上から見ている一個の目玉は真我という見る意識の象徴に他なりません。そして、写真上の映像は、私たちがその存在を認識しているもの、すなわち別の角度から申せば、真我という見る意識が見る対象としているものの、象徴です。

で、このイメージを再現できたら、お手数ではありますが、さらに続けてイメージしていただきたいことがあります。

それは何かと言いますと、あまりにもマンガチックなので、ふざけているように思われても仕方ないのですが、写真を真上から見ている目玉が棒のようにスルスルッと下に伸びていって写真上の映像にピタッとくっついている図です。どうでしょうか? うまくイメージしていただけたでしょうか。

この図のことを、これ以降は話を進めやすくするために、「目玉スルスルピッタンコ図」と略称させていただきます。目玉がスルスルッと下に伸びていって写真上の映像にピタッとくっついている図だから、「目玉スルスルピッタンコ図」と言うわけです。ここは、笑うところではないんですけどね。

この「目玉スルスルピッタンコ図」によって象徴的に表現されているものは何なのか? と言いますと、それは、真我という見る意識においては、次の二つのことが同時にある、ということです。

A、真我という見る意識は、三次元空間を俯瞰できる場所、すなわち、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在している。

B、真我という見る意識は、見ている対象にクギヅケになっている。

真我という見る意識においては、AとBが同時にある、ということを、象徴的に表現したものが「目玉スルスルピッタンコ図」なんですね。

そこを押さえた上で、あらためて、この「目玉スルスルピッタンコ図」に意識を向けてみてください。

前にイメージしていただいた、一個の目玉が一枚の写真を真上から見ているだけの図からは、Aしか見て取ることができなかったはずですが、この「目玉スルスルピッタンコ図」からは、Aの中にBが、切り離せないものとして含まれていることが、見て取れると思います。

イメージワーク〈その二〉

さてそれでは、次の話になりますが、前出の「目玉スルスルピッタンコ図」とは別にもう一つだけ、皆さんにイメージしていただきたい図があります。えっ、まだあるの! なんておっしゃらずに、もう少しおつきあい願います。

強いてその図に呼び名をつけるとすれば、「写真の上にガラスの立方体が立っている図」といったところでしょうか。「写真の上にガラスの立方体がのっかっている図」でも悪くはないですが、ここでは、そう呼ぶことにいたしましょう。

この、「写真の上にガラスの立方体が立っている図」という呼び名からも、お察しいただけるかと思いますが、皆さんにこれからイメージしていただきたいのは、先ほど出てきた一枚の写真の上にガラスの立方体が立っている図に他なりません。

イメージをする際、留意していただきたいことがありまして、それは何かといいますと、写真の大きさとガラスの立方体の底面の大きさを同じにして、なおかつ両者の向きも同じにする、ということです。言い換えれば、写真とガラスの立方体の底面が、ピタリと重なるようにする、ということですね。

この「写真の上にガラスの立方体が立っている図」によって、象徴的に表現されているものが何であるか、お分かりでしょうか? 答えを先に申しますと、実はそれは、「目玉スルスルピッタンコ図」によって、象徴的に表現されているものと全く同じなのです。

つまり、真我という見る意識においては、前出のAとBが同時にある、ということが、「目玉スルスルピッタンコ図」と同じように、この図によってもまた、象徴的に表現されているのだ、ということですね。これについて、ご説明しましょう。

既に分かっておられますように、この図の中に出てくる写真は三次元空間の象徴です。そして、その写真上の映像は、私たちがその存在を認識しているもの、言い換えれば、真我という見る意識が見ている対象の象徴です。

では、その写真の上に立っている、あるいは、のっかっているガラスの立方体は何の象徴なのか? という話になるわけですが、これはもう、消去法で行っても、真我という見る意識の象徴以外の何物でもありません。つまり、「目玉スルスルピッタンコ図」の中の目玉に相当するものが、ここに言うガラスの立方体だというわけです。

そこを押さえた上で、まず着目していただきたいのは、このガラスの立方体が、写真に対して垂直な方向に伸びているところです。それを通して、真我という見る意識が、三次元空間よりも一つ上の広がりを持つ空間に存在している、ということが、視覚的・感覚的にお分かりになると思います。

で、次に着目していただきたいのは、ガラスの立方体の底面が写真とピタリと重なっているところです。それを通して、真我という見る意識は、見ている対象にクギヅケになっているということが、視覚的・感覚的にお分かりになると思います。

「目玉スルスルピッタンコ図」と、この「写真の上にガラスの立方体が立っている図」を見比べてみますと、どちらも象徴的に表現されているものは同じであるとはいえ、前者よりも後者のほうが、真我という見る意識の巨大さがピンときやすい、という意味では、すぐれていると言えます。

皆さんぜひ、「写真の上にガラスの立方体が立っている図」から、真我という見る意識は三次元空間よりもどれぐらい大きいのか、また、どんな風に大きいのか、ということを感じ取っていただきたいと思います。

悟りはこのように捉えることもできる

話は変わりますが、以上を踏まえながら、ここでもう一度触れておきたいのは、「悟りとは何か?」ということです。

前々回の記事で私は、こう申し上げました。真我という見る意識が真我という見る意識自身を見ることが、悟りである、と。が、この悟り観というのは、前出の「写真の上にガラスの立方体が立っている図」を用いて説明しなおすと、こうなります。

「写真の上に立っているガラスの立方体」が「写真の上に立っているガラスの立方体」自身を見ることが、悟りである。

ここに言う「写真の上に立っているガラスの立方体」は、真我という見る意識をなぞらえたものゆえに、そのように言うこともできるんですね。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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