悟る主体は誰なのか?

悟りとは何か?

さて、それではここで悟りの話に移らせていただきますが、これまでの話を聞いてこられた皆さんの多くはきっと、私の悟り観がどういうものかをお知りになったら、ここまでの話と私の悟り観の間に矛盾を感じられるに違いありません。私の悟り観の中には、一見したところ、これまでの話とつじつまが合わないかのように見える内容が含まれているからです。

ここに言う悟り観とは言い換えれば、悟りとは何か? という問いに対する答えのことですが、その問いに対する私の答えは次のようなものです。

悟りとは真我という名の眼が真我という名の眼自身を見ることである。

いかがでしょうか? この悟り観には一見、私のこれまでの話とつじつまが合わない点があることは誰でもお認めになると思います。

私はこれまでの話の中で、真我という名の眼は真我という名の眼自身を見ることはできないということを申し上げたからです。その直後に、悟りとは真我という名の眼が真我という名の眼自身を見ることであるなんてことを申し上げたら、そりゃあ誰だって「さっきの話とつじつまが合わないじゃないか」と言いたくなるのは無理からぬところです。

これとは別の記事”において、そのつじつま合わせをしておりますので、それを読んでおられる方は例外だとは思いますけれども。

もう一度整理させていただきますが、私のこれまでの話には、真我という名の眼は真我という名の眼自身を見ることができないという内容が含まれています。その一方で私の悟り観は、悟りとは真我という名の眼が真我という名の眼自身を見ることであるというものです。

悟りの中でのみ現れる特殊な「見る」

皆さんが今感じておられるであろう、この両者の間にある矛盾、もしくはつじつまの合わなさを解消していただくために、私がここで申し上げたいのは次のことです。

私のこれまでの話の中に出てくる「見る」と、私の悟り観の中に出てくる「見る」は同じ「見る」でも意味合いが違う、だから、両者は矛盾しないし、つじつまが合わないということもない。

こう申し上げると、では前者と後者の意味合いの違いとはどういうものなのか? と皆さんは思われるはずなので、それについてもご説明しておきましょう。

私のこれまでの話の中に出てくる「見る」と、私の悟り観の中に出てくる「見る」の意味合いの違いを一言で申せば次のようになります。

前者の意味するものが「対象化を伴う見ること」であるのに対して、後者の意味するものは「対象化を伴わない見ること」である。

ここに言う「対象化を伴う見ること」は言い換えれば、見る者はコチラにあり見られる者はアチラにあるとい構図を持つ見ることでもあります。これのことは誰でも知っています。それに対して、ここに言う「対象化を伴わない見ること」は言い換えれば、見る者はコチラにあり見られる者はアチラにあるという構図を持たない見ることでもあります。これのことは悟り以後の人しか知りません。

「対象化を伴う見ること」は誰でも知っているのに「対象化を伴わない見ること」は悟り以後の人しか知らないのはなぜかと言いますと、「対象化を伴う見ること」と違って「対象化を伴わない見ること」というのは、誰においても悟りの中でしかその存在が明らかになることはないからです。

つまり、私たちは悟りの中ではじめて、言い換えれば真我が真我自身を見るという不思議な転回の中ではじめて、「対象化を伴わない見ること」というものの存在を知ることができるんですね。こんなものがあったのか! みたいな感じでです。

なので悟りへの途上におられる方は今は、その「対象化を伴わない見ること」がどういうものかということについてはあまり深く追求せず、そういう特殊な形の見ることもあるようだというぐらいの受け止めかたをしておかれたらいいと思います。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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