“真我で見る”の意味をオショーに訊く

※この記事は管理人のYOUTUBE動画『 “真我で見る”の意味をオショーに訊く』のナレーションテキストを下敷きにして書かれたものです。

真我すなわち見る者だけが本物だというオショー

今回は「真我で見る」ということの意味を、今はなきインドの覚醒者・オショーの生前の言葉に照らしつつ、探ってみたいと思います。

まずは、『存在の詩』という本に収められている、オショーの次の言葉からお聞きください。

全世界はスクリーンの上の映像と全く同じだ

なぜならそれはすべて電気現象にすぎないのだからー

ただあなただけが本物だ

ただその観照者だけが本物でありあとはすべて夢なのだ

そしてブッダフッドとは

こうした一切の夢をあなたが超越し

そこに見られるべき何ものも残らない

ただ見るものだけが静かに座るー

そういう状態を言う

何もない

見られるべきどんな対象もない

ただ見る者だけが残る

そのときこそ

あなたはブッダフッドに到達している

引用元・『存在の詩』415p/著者・和尚OSHO/発行所・めるくまーる

続けて聞きいていただきたいのは、『新瞑想法入門』という本に収められている、オショーの次の言葉です。

覚えておくべきもっとも基本的なことのひとつはーあなただけでなく、あらゆる人にとってー内なる旅て出会うものは、どれも自分ではないということだ。

あなたは、それを目撃する者だ。

引用元・『新瞑想法入門』98p/著者・和尚ラジニーシ/発行・瞑想社

「真我は見る者である」とは「真我は感じる者である」という意味ではない

以上のオショー言葉から、私たちは次のことを読み取ることができます。私たちにとっての本当の自分、言い換えれば真我とは、私たちにとっての外的な世界および内的な世界の目撃者、すなわちそれらを見る者である。

もっと簡単に言えば、真我とはあらゆるものを見る者である、という風にオショーは言っているんですね。その伝でいきますと当然ながら、真我には見る働きがある、ということになるわけですが、この真我の見る働きとは、一体どういうものなのでしょうか?

それは、感じることを指しているのでしょうか?  言い換えれば、「真我は見る者である」とは「真我は感じる者である」という意味なのでしょうか。一般的には、そのように考えている人が多数派のようです。

が、オショーの場合は、真我を見る者とはみなしてはいますが、真我を感じる者とはみなしていません。つまりオショーにとっては、「真我は見る者である」と「真我は感じる者である」は同義語ではないんですね。

次にご紹介するのは、オショーの邦訳本 『信心銘』という本に収められている一文ですが、ここからも、それを見て取ることができます。

哲学者は薔薇について考え、詩人は薔薇を感じる。もし決めなければならないとしたら、必ず詩人の側に立ちなさい。詩人は哲学者よりは真実に触れている。が、神秘家は考えもしなければ感じもしない。ただ薔薇の現存の中に止まるだけだ。

と言うのは、感じることも離れることだからだ。考えることほど遠くは行かないが、感じることも離れることだ。感じることも、ある微妙な行動だからだ。

神秘家は薔薇の現存の中にただ止まる。行動もせず、考えることもせず、感じることもしない。心情(ハート)でもなければ頭でもない。彼はただ薔薇とともにいる。

引用元・『信じ銘』123p/著者・ラジニーシ/発行所・(財)禅文化研究所

この一文の中でオショーは、真我は感じる者ではないということを直接的には語っていませんが、間接的にはそのように語っていると言えます。なぜなら、この一文に出てくる神秘家が真我を具現した者、もしくは真我の体現者を指していることは間違いないからです。

その真我の体現者である神秘家は考えもしなければ、感じもしない、という風に彼は言っているんですね。これはつまるところ、真我は感じる者ではない、と言っているのと同じなのです。

「真我は見る者である」という言葉を、「真我は感じる者である」という言葉の言い換えとして使っておられる悟り系メッセンジャーのかたがたは、これをどう受け止められるのかな、と思います。

考えることと同じように感じることもまた対象から離れること

で、それとは別にもう一つ見逃せないのは、前出の一文の中でオショーは、考えることと同じように感じることもまた対象から離れることだという点にも触れていることです。

ここに言う「対象から離れる」は言い換えれば、主体と客体が分離すること、すなわち見る者はコチラにあり見られる者はアチラにある、という構図が生まれることです。

一般的には、この構図が生まれるのは、私たちが考えている時だけであるかのように見なされがちですが、私たちが感じている時にもまたその構図は生まれるんだ という風にオショーは語っているんですね。

前出の一文の後に、「考えることと同じように感じることもまた対象から離れることだ」ということが、ダメ押しのように語られているくだりがありますので、こちらのほうも併せてご紹介しておきましょう。

考えれば離れている。感じれば、それほど離れてはいないが、まだ分離している。寄り添ってはいるが、まだ分離している。

考えるでもなく、感じるでもなく、ただともに在るだけ。と、突如として、そこに自分はいない。そこに世界はない。〈一なるもの〉が、ブラーフマが顕われる。自分と世界はひとつになっている。無限なるものが、無形なるものがそこにある。そして、それこそが真理だ。

引用元・『信じ銘』124~125p/著者・ラジニーシ/発行所・(財)禅文化研究所

いかがでしょうか。オショーに言わせるとやはり、私と私が見ているものの分離の原因になるという意味では、考えることと感じることとは同類ということになるようです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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