真我でモノ見るには思考も感じることも介在させてはならない
今回は、オショー・ラジニーシが生前に提唱したある瞑想法をご紹介することをメインに話を進めてまいりたいと思います。
この瞑想法は、『瞑想ー祝祭のアート』という本に収められている、「存在との無言のコミュニケーション」という名の瞑想法でありまして、その目的は、一言で申せば、私たちの内なる無形の知覚者、すなわち真我という名の知覚者を顕在化させることにあります。
真我という名の知覚者を顕在化させる、というのは言い換えれば、真我でもってモノを見ている状態になる、ということですね。
その具体的なやりかたにつきましては後で詳しくお話ししますが、ここでちょっとだけ、それに触れておきますと、言葉あるいは思考だけではなく、感性の働きである感じることさえも停止させて、一つの対象、例えば花なら花を見る、というものです。
そうしてはじめて私たちは真我でもって、花などを見ることができるようになる、というのがオショーの見解であり、それに基づいてくだんの瞑想法はつくられているわけです。
それをここで、皆さんに紹介させいてただくということは言うまでもなく、この私が、前述のような見解を持つオショーの側に立つ者であるからに他なりません。
こういう話をしますと、真我で何かを見たり、知覚したりすることと、感性の働きである感じることとを同一視しているおられるかたがたを向こうに回す形になってしまいますが、私から彼らになげかけてみたい質問が一つあります。それは次のようなものです。
「感性の働きである感じること」が自分に起こっている時、それを見ている者は誰なのか? ということについて、あなたは一度でも考えてみたことはないのでしょうか?
私に言わせれば、「感性の働きである感じること」が自分に起こっている時、それを見ている者あるいは知覚している者こそが実は真我であって、彼らの見解とは裏腹に、そこで感じている者が真我なのではない、ということです。
真我で見ること、もしくは知覚することと、感性で感じることとは全くの別物であることが、これによってもお分かりになると思います。
さて、本題に入るに当たって一つお断りしておきますが、これ以降は真我という言葉のかわりに、それと同じ意味を持つ実存という言葉を使うことにいたします。理由は、このあと引用させてもらうオショーの話の中では、真我という言葉の代わりに実存という言葉が使われているので、それに合わせるためです。
「存在との無言のコミュニケーション」という名の瞑想法
これから紹介させていただくのは先ほどお話ししましたように、「存在との無言のコミュニケーション」という、オショー・ラジニーシによって提唱された瞑想法の一つです。この瞑想法は二つのステップからなっています。まずは、その一つ目のステップから見てみましょう。一つ目のステップのやりかたを手短に申せば、次のようになります。
「美しい」という言葉を介在させずに花の美しさを感じる。
言い換えれば、花を見ながら、美しいという言葉を一言も発することなく、その花の美しさを感じる、ということです。
一つ補足しておきますと、ここに言う「美しいという言葉を一言も発することなく」は、美しいという言葉を口に出してつぶやくことはもちろん、心の中でつぶやくことさえもしないで、という意味です。徹底していますね。
この第一ステップは、感性から言葉を切り離すためのものです。つまり、美しいという言葉を使わずに、花の美しさを感じることを通して、感性から言葉を切り離すことが、この第一ステップの目的であるわけです。
が、オショーはこう言います。感性から言葉を切り離すことができれば、あなたは存在から感性を切り離すこともできる、と。
この言葉からもお察しいただけるかと思いますが、第二ステップの目的は、存在から感性を切り離すことにあります。第一ステップの目的が、感性から言葉を切り離すことなら、第二ステップの目的は、存在から感性を切り離すことなのです。その第二ステップのやりかたは、次のようなものです。
花の美しさを感じることさえも止めて、花をそこに在らしめ、自分もそこにあらしめる。
言い換えれば、花をそこに在らしめ、自分もそこに在らしめるが、感性をそこに割り込ませてはならない。すなわち、花が美しいと感じることさえしてはならない、というわけです。
ということで、「存在との無言のコミュニケーション」と名づけられたこの瞑想法というのは、超簡単に申せば、「美しい」という言葉無しに花を見ながら、花の美しさを感じる第一ステップと、花が美しいと感じる感性さえも無くして花を見る第二ステップから成っているのですが、この二つのステップを踏むことによって私たちは、一体どのような境涯に到ることができるのでしょうか?
それに対する答えは、オショー自身の言葉でお聞きください。以下は『瞑想ー祝祭のアート』という本からの引用になります。
そのとき、あなたは感性なしで美しさを感じるだろう。あなたが花の美しさになっていることだろう。それはフィーリングではない。
あなたが花であるだろう。そうしたとき、あなたは実存的に何かを感じたのだ。
これをなしえたときには、あなたは何もかもが去ってしまったのを感じるだろう。思考も、言葉も、感性も━━。そしてあなたは感じることができる、実存的に━━。
引用元:『瞑想━祝祭のアート』388p 著者/和尚ラジニーシ
発行所/(株)メルクマール
感性なしで感じるとは?
以上のオショーの話を、あなたはどのように受け止められたでしょうか。いずれにしても、まず着目していただきたいのは、引用文の一番最後の行に出てくる「感じる」という言葉です。「そしてあなたは感じることができる、実存的に━━。」というくだりに含まれている「感じる」という言葉ですね。
引用文全体の文脈から考えて、この「感じる」という言葉が“感性なしで感じること”を指しているのは明らかです。
これは、第一ステップの説明の中で使われている「感じる」という言葉が、“感性で感じること”を指しているのとは対照的ですね。 そこのところを整理すると、次のようになります。
一・第一ステップの説明の中で使われている「感じる」という言葉は、“感性で感じること”を指している。
二・それに対して、引用文の一番最後に出てくる「感じる」という言葉は、“感性なしで感じること”を指している。
さて一般的には、「感じる」という言葉は、常に“感性で感じること”を指しており、それ以外のものを指すことはありません。それはちょうど、一般的に「食べる」という言葉は常に“口で食べる”ことを指しており、それ以外のものを指すことがないのと同じです。
だからこそ私たちは一般的には、「感じる」という言葉を書いたりしゃべったりする時、それが“感性で感じること”を指しているのだということを、わざわざ断ったりしないわけです。
それは言い換えれば、私たちが、「感じる」という言葉を、何の但し書きも、補足説明もなしに使う場合、それは百パーセント“感性で感じること”を指している、ということでもあります。それぐらい私たちにとって、「感じる」という言葉が“感性で感じること”を指しているのは自明のことだという話ですね。
しかしご存じのように、ここが一番大事なところなのですが、前出の引用文の中でオショーは、“感性なしで感じること”もあり得るんだよ、という話をしています。
これを聞いて、悟入者を除く全てのかたがたは、ええっ、そんなものが本当にあるの? と思われたのではないでしょうか。
この“感性なしで感じること”について、前出の引用文を通してオショーが伝えようとしているのは、次の三点です。
A・それができるようになるのは、言葉と“感性で感じること”の両方を停止させた時である。
B・それができた時、あなたは対象、つまり花などと一つになる。
C・それと、“実存的に感じること”とはイコールである。
Aに関してはもはや、言葉を足す必要はないでしょうから、ここではBとCの補足をしておきたいと思います。まずはB、すなわち、“感性なしで感じること”ができた時、あなたは対象、つまり花などと一つになる、という部分に対する補足をさせていただきます。
オショーが伝えたいことの中に、このBも含まれていると私が見る理由は、前出の引用文の中に「あなたが花の美しさになっていることだろう」というくだり、および「あなたが花であるだろう」というくだりがあるからに他なりません。
が、ここに言う「対象、つまり花などと一つになる」は言い換えれば、「対象、つまり花などと自分との間に心理的な距離がなくなる」ということでもあります。
対象、つまり花などと自分との間に物理的な距離がなくなるということはあり得ませんので、消去法で考えても当然、そういうことになりますよね。
一般的には、「対象、つまり花などと自分との間に心理的な距離がなくなる」のは、私たちが言葉すなわち思考を停止した時であるかのように思われがちですが、前出のオショーの話に照らしますと、本当は、私たちが言葉や思考だけではなく、“感性で感じること”をも併せて停止した時はじめて、そうなるのだということになります。
言葉もしくは思考、そして“感性で感じること”、この両方を併せて停止した時にこそ、私たちは、“感性なしで感じること”ができるようになり、その結果として「対象、つまり花などと一つになる」こともできるようになる、とオショーは言っているんですね。
Bに対する補足はこんなところです。
次はC、すなわち「“感性なしで感じること”と、“実存的に感じること”とはイコールである」という部分に対する補足をさせていただきます。
ここに言う“実存的に感じる”は、その意味合いを考えますと“実存で感じる”と言い換えられますので、前出のCは、次のように意訳することも可能です。
“感性なしで感じること”と、“実存で感じること”とはイコールである。
とはいえ、先ほど申し上げたことの繰り返しになりますが、一般的に私たちにとって、“感じること”と言えば、常に“感性で感じること”を指しており、それ以外のものを指していることは百パーセントありません。
なので、このフレーズの中に出てくる“感性なしで感じること”という言い回しには、悟入者は例外として、誰もが違和感を持たずにはいられないはずです。例えば、「口なしで食べること」とか、「耳なしで音を聞くこと」とか、「鼻なしで臭いをかぐこと」といった言い回しに、誰もが違和感を持たずにはいられないのと同じようにです。
このことにも表れておりますように、ここに言う“感性なしで感じること”というのは、悟入者を除く全てのかたがたにとっては、想像もつかない未知の知覚だと言えます。そんな知覚が自分にあるということが、信じられないかたがいらしたとしても、無理からぬところです。
パパジと一質問者の間に交わされたある会話
さて、これからご紹介させていただくのは、今の話の中に出てきた「そんな知覚」、言い換えれば「感性なしの感じること」が自分に起こってしまった人の、驚きやとまどいが見て取れる、ある会話です。この会話は、生前の覚醒者パパジことプンジャジと、一質問者の間にかわされたものです。
【質問者】 興味深いことに、ある種の知覚が、ある特殊な知覚が起こっているようなのです。
【パパジ】 そうだ。それが私の語っていることだ。それが瞑想なのだ。……
【質問者】 ……何が起こっているのか、自分でもよく分からないのです。
【パパジ】 (笑いながら)そうだ。それが真の瞑想なのだ。……
引用元:『覚醒の炎 プンジャジの教え』37p
発行所/(株)ナチュラルスピリット
いかがでしょうか? 要するに、質問者はこういうことを言っているんですね。興味深くて、特殊で、何が起こっているのか自分でもよく分からないような、そういう知覚が私に今起こっています、と。
この知覚が、前出の「感性なしの感じること」言い換えれば「実存からくる知覚」を指していることは間違いないと言えます。なぜなら、質問者のその発言は悟り系の説法者・ババジとの会話の中でなされたもの、言い換えれば、悟りや真理の探究を目的としたやりとりの場でなされたものだからです。
また、その質問者に起こった知覚が、「俗に言う感じること」つまり「感性からくる感じること」とは別物であることは、質問者が自分に起こったその知覚に対して、興味深くて、特殊で、何が起こっているのか自分でもよく分からないようなものであるという風に述べていることからも明らかです。
もし仮に、彼または彼女に起こったその知覚が、誰もが当たり前のように知っている「俗に言う感じること」もしくは「感性からくる感じること」を指しているのであれば、そういう感想が出てくることは絶対にないからです。
で、その質問者に生じた前述のような変容に対して、パパジはこう評価しています。それが真の瞑想なのだ、と。
瞑想の定義、あるいは瞑想とは何か? という問いに対する答えが一通りでないことは皆さんご存じかと思いますが、パパジは、くだんの質問者に生じた前述のような変容こそが真の瞑想なのだと述べているんですね。これは、くだんの質問者が悟入者の仲間入りを果たしたことを認めているようなものだとも言えると思います。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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