※当記事は管理人のYOUTUBE動画『瞑想・時間を棒に振るための座り』のナレーションテキストを記事化したものです。記事化に当たっては部分的な修整・添削をほどこしました。
瞑想と不可分の関係にある時間を棒に振る意識
今回は、『瞑想・時間を棒に振るための座り』というタイトルで私が瞑想と見ているものの本質に迫ってみたいと思います。が、このタイトルにも示唆されておりますように、私が瞑想と見ているものの中には、時間を棒に振る意識が含まれているんですね。
瞑想というものの捉え方は色々あって、その中のどれが正しくてどれが間違っているということは言えないのでしょうが、あくまでも私が瞑想と見ているものに限って申せば、その中には時間を棒に振る意識が含まれているということです。
ここに言う「時間を棒に振る意識」は言い換えれば、「その時間を何か実りのあるものや、有意義なものや、何かのためになるものにしようとしない意識」、あるいは「それを通して、何らかの成果や結果を得ようとしない意識」、といったものになります。
そういう意味における「時間を棒に振る意識」が、私の言う瞑想なるものの中には含まれているわけです。というか、その意識が含まれておりさえすれば、何をやっていてもそれは、私の言う瞑想に該当することになるんですね。
とはいえ、この瞑想にも一応基本形というものはありまして、それはどういうものかといいますと、眼を閉じて座った状態で「時間を棒に振る」ことを意識するというものです。座りかたはもちろん自由です。
時間を棒に振る意識によって中和される目的意識という名の重荷
ご存じのように、私たちは、日常生活の中で何かに時間を当てる場合、まず例外なく、そこに何らかの実りや成果や結果を期待します。
従って、その手の瞑想というのは、つまり、時間を棒に振ることを意識しながらの様々な行為というのは、私たちが普段している時間の使い方とは真逆の時間の使い方であるとも言えます。
その手の瞑想、つまり言葉を変えて申せば「あらゆる目的意識を外した行為」というものを脳内だけで想像する人の中にはおそらく、それに対して、まるで生気のない死人のようになることのような印象を持たれる向きもあろうかと思います。目的のない人間は死んでるのと同じだ、目的があってこそ人間は生き生きとしてくるものなんだ、みたいな感じでです。
しかし、実際にやってみればお分かりになるはずですが、その最中にある時の私たちというのは生気のない死人のようになるどころか、それとは真逆に、かえって生き生きとしてきます。というのもその時の私たちは、目的意識という名の重荷から完全に解放されているからです。
目的が欲しいにも関わらず、それが見つからなくて、不本意な形で目的意識を持てないでいる人との違いがここにあります
仕事も遊びに変える時間を棒に振る意識
こう申し上げると、もう察した方もおられるかも知れませんが、座りにおいてであれ、座り以外のことにおいてであれ、時間を棒に振る意識を持つことは、何かをしようとする時にどうしても自然発生してしまう目的意識という名の重荷を、中和するための一つの方便でもあるんですね。
このやり方を用いると、日々の仕事でさえも遊びにかわります。子供のころだけ皆が知っていたあの本当の意味における遊びにです。
皆さんぜひ、座りを通してこのやり方とそれによってもたらされる人を生き生きとさせる効果を理解されたアカツキには、日々の仕事にもこのやり方を用いて、日々の仕事をあの子供のころの遊びに変えていただきたいと思います。
最終的には人生そのものに対しても、このやり方を用いられるようになったら、素晴らしいんじゃないでしょうか。
今回の話は以上です。
中島タローでした。
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