真我はこの私とこの宇宙の埒外(らちがい)にある

※当記事は、管理人のYOUTUBE動画『真我・私の体と心とこの宇宙の埒外(らちがい)にあるもの』のナレーションテキストに部分的な修整をほどこし、記事化したものです。

真我・この私とこの宇宙が消滅した後にも残るもの

自分でこういうことを言うのも何ですが、現在のスピリチュアル界隈において、私の真我観は超異端だと思います。将来的にその異端性が薄まってゆく可能性はあるとしても、少なくとも今の時点で、私の真我観がスピリチュアル界隈における超異端であることは間違いないでしょう。

ここに言う真我観とは、真我とは何か? という問いに対する答えのことです。が、その問いに対する私からの答えは複数あって一つに絞ることはできないのですが、ここでは次のようにお答えしておきたいと思います。

私の体と心、およびこの宇宙の全てが仮に今消えて無くなったとしても、なおその後に残る何か。

ここに言う心とは、集合的無意識とか普遍的潜在意識などと呼ばれ、時には宇宙的無意識などと呼ばれることもある心の一番深い層までも含めた最も広い意味における心を指します。また、ここに言う宇宙の全てとは、眼に見える物質領域と眼に見えない波動領域の両方を含めたものを指します。

それらが仮に今、全部まとめて消えて無くなったとしても、なおその後に残る何かがあり、それが真我であるという風に、私は見ているわけです。

私のこの真我観が現在のスピリチュアル界隈において超異端だと言えるのは、そこで真我と見なされているものはどれもこれも、表現の仕方に違いはあるものの、心や宇宙の外側に出るものではないという点では一致しているからです。

ともあれ、前述のような私の真我観についてこれないことが百パーセント確定している人というのは次のような人だと言えます。私の体と心、およびこの宇宙の全てが仮に今消えて無くなったとしても、なおその後に残る何かがあるという話を全く信じられない人、または認められない人。

裏を返せばこれは、その話にほんのわずかでも信憑性を感じられる人、あるいはその話にピンとくるものが少しでもある人というのは、私の真我観についてこれる余地があるということでもあります。

悟りが起こる場所もまたこの私とこの宇宙の埒外

話は変わりますが、ここで悟りのことにも少し触れておきましょう。

前述のように、私の体と心、およびこの宇宙の全てが仮に今消えて無くなったとしても、なおその後に残る何かのことを私は真我と見ているわけですが、これに対しては、次のようなクエスチョンを持たれたかたが皆さんの中にはいらっしゃるかも知れません。

もし仮に、私の体と心、およびこの宇宙の全てが消えて無くなったとしたら、真我を見ることができる者もいなくなるのではないだろうか?

これは言い換えれば、真我しか存在してない状態と、真我を見ることができる者は誰もいない状態とはイコールではないか? ということでもありますね。

これに対する私からの答えは次のようなものになります。

私の体や心やこの宇宙の全てが消えて無くなり、真我しか存在しない状態になったとしても、真我を見ることのできる者がまだ残っている。それは他ならぬ真我自身である。

いや、この答えではまだ正確さに欠けるところがあるので、次のように言い直させてください。私の体や心やこの宇宙が有っても無くても、そんなことには一切関係なく、真我を見ることができるのは常に真我だけに限られている。

これについて、少し補足しておきましょう。

真我は見る働きを備えているところから、目になぞらえられることがありますが、この真我という名の目からしてみると、私の体や心やこの宇宙といったものは自分が見ているスクリーン上の映像のようなものに過ぎないので、それらの有る無しによって自分の存在が影響されることはない、ということがまず言えます。私の体や心やこの宇宙が仮に消滅したとしても、真我だけは存在し続けられる理由はこれです。

そして、この真我という名の目は、私たちの顔についている目とは異なり、なぜか見ている方向を百八十度回転させて、自分自身をも見ることができるんですね。ここが、真我という名の目の不思議なところなのです。物質世界の法則に縛られない非物質的な目だからこそ、そういうことも可能なのだと思います。

で、悟りというのは、その真我という名の目が真我という名の目自身を見る不思議な転回のことを言うわけです。この悟りが私の体や心やこの宇宙の埒外で起こるのは言うまでもなく、悟る主体である真我自身がそれらのものの埒外にあるからに他なりません。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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