真我を心で掌握できない理由

※当記事は、管理人のYOUTUBE動画『真我・感じることも体感も実感も認識も理解もできないもの』のナレーションテキストに部分的な修整をほどこし、記事化したものです。

真我は「気づき」だが一般的な意味の「気づき」ではない

今回は、真我というものが如何なる意味においても、心で掌握することが不可能なものであると言える理由についてお話ししたいと思います。

さて、何をもって真我とするか、ということについては色々な見方があると思いますが、それらは次の二つのグループに分けることもできます。一つは、真我を私たちの中にある気づきとする見方、もう一つは、真我をそれ以外の何かとする見方。

ご存じの方はご存じのように、私の場合は前者、すなわち、真我を私たちの中にある気づきとする見方にくみする立場なので、ここからの話はその立場からのものになりますが、真我を私たちの中にある気づきとする見方というものに関して、まず最初に申し上げておきたいのは次のことです。

ここに言う「気づき」の捉え方もしくは定義は基本的に二通りあって、その中のどちらを取るかによって、真我を私たちの中にある気づきとする見方もまた、さらに二つに分けることができる。

気づきの捉え方もしくは定義は基本的に二通りあるなんてことを申し上げますと、気づきと言えば心の働きの一つである感じること以外の何ものでもないかのように思い込んでおられる方々からしてみると、この物言いはマユツバに映るかも知れませんね。

しかし私に言わせていただくならば、その心の働きの一つである感じることを意味しない、それとは別のもう一つの気づきというものが確かに、私たちの中にはあるのです。

心の働きの一つである感じることを仮に「感じる気づき」と呼ぶとすれば、今申し上げたそれとは別のもう一つの気づきというのは「感じる以前の気づき」とでも言うべきものです。この「感じる以前の気づき」という呼び名には、心の働きの一つである感じることが発生する前から私たちの中にある気づきという意味合いがあります。

で、この「感じる気づき」とは別にある「感じる以前の気づき」こそは、私が真我と見ているものに他なりません。今のところ「感じる気づき」を真我と見ておられる方のほうが圧倒的に多い中での、こういう発言は敵を増やすことに繋がりそうではありますが、ここではっきりとそう申し上げておきます。

「感じる気づき」と「感じる以前の気づき」の関係

さて、ここに言う「感じる気づき」と「感じる以前の気づき」の関係を感覚的に理解するよい方法があります。それは二つの目玉が一列に並んでいるところをイメージしてみることです。

たった二つしかないものに対して一列という言葉を使うのも何ではありますが、それは横に置いておいて、その一列に並んでいる二つの目玉のうち前のものは「感じる気づき」を表し、後ろのものは「感じる以前の気づき」を表しています

このイメージを通して、皆さんに汲み取っていただきたいのは、「感じる以前の気づき」は「感じる気づき」をも気づきの対象にすることができるという点です。「感じる以前の気づき」は「感じる気づき」の後ろにあるがゆえに、「感じる気づき」を視野に入れることができる、つまりそれに気づくことができるというわけです。

これとは対照的に、「感じる気づき」というのは「感じる以前の気づき」の前にあるがゆえに、「感じる以前の気づき」を視野に入れることができない、つまりそれに気づくことができないということになります。

後ろにいる者は前にいる者に気づくことができても、前にいる者は後ろにいる者にきづくことができないというのは人間の世界でも同じですね。

このようなわけで、既にピンときておられる向きもあるかも知れませんが、私たちが自分の中に「感じる気づき」が発生した時、「感じる気づき」が発生したというそのことを知り得るのは、「感じる気づき」に気づくことができる「感じる以前の気づき」のおかげだということになります。

もしこれがなかったら私たちは、自分の中に「感じる気づき」が発生した場合でも、「感じる気づき」が発生したというそのことが分かりません。

皆さんは今まで、こんな風に考えてはおられなかったでしょうか。自分の中に「感じる気づき」が発生した時、「感じる気づき」が発生したというそのことが私たちに分かるのは当たり前のことだ、と。

しかし本当は、それというのは当たり前のことなのではなくて、つまり理由のないことなのではなくて、「感じる気づき」に気づくための「感じる以前の気づき」が私たちの中にあるからこそ、それが可能だったんですね。今申し上げたことは、私たちには目玉があるからこそモノを見ることができるのだということと、理屈としては同じです。

悟りの中でのみ明らかになる「感じる以前の気づき」の存在

とはいえ私たちは、一般的には、その「感じる気づき」を見るための目玉とも言うべき「感じる以前の気づき」それ自体に気づくことはできません。なぜだと思われますか。

先ほどの喩えを用いてその答えを申し上げるならば、くだんの二つの目玉の後ろにならぶ第三番目の目玉が私たちにはないからだ、ということになります。言い換えれば、その「感じる以前の気づき」それ自体に気づくために必要な第三番目の気づきが私たちにはないからだということになるわけです。

あくまでも仮定の話ですが、もしも、私たちにその第三番目の気づきがあったとしたら、私たちは誰でも、悟っているいないに関係なく、真我の別名である「感じる以前の気づき」の存在を知っていたことでしょう。

ただしそこでは、その第三番目の気づきには誰も気づけないという、新たな問題が生じることになります。そうなるのは言うまでもなく、その第三番目の気づきに気づくためには、それを可能とする第四番目の気づきが私たちになければならないからに他なりません。意味分かりますかね。

いずれにしても、「感じる気づき」と「感じる以前の気づき」に続く第三番目の気づきが私たちにないということは、つまるところ、「感じる以前の気づき」の存在が私たちの前に明らかになることは永遠にないということを意味しているのでしょうか?

理屈としてはそういうことになりますが、その答えは実はノーなのです。というのも悟りに到った人に限って言えば、誰においても、その「感じる以前の気づき」の存在は明らかだからです。

裏を返せばこれは、人は悟りに到らない限りは、「感じる以前の気づき」の存在が明らかになることはないということでもあるわけですが。

では、悟りとは一体何なのでしょうか? 私のこれまでの記事をよくお読みになっておられる方々からするともはや耳タコかも知れませんが、「感じる以前の気づき」が「感じる以前の気づき」それ自身に気づくこと、というのがその答えになります。

真我の別名である「感じる以前の気づき」が「感じる以前の気づき」それ自身に気づくこと、言い換えれば、先ほどの喩え話に出てきた第二番目の目玉が第二番目の目玉それ自身を見ること、これが悟りというものなんですね。

これに対しては、目玉が目玉自身を見るなんてことがあり得るのか? と、訝しく思われる向きもあろうかと思いますが、目玉は目玉でも物理的な目玉と違って、この真我という名の目玉にはそういう常識では説明のつかないことがあり得るのです。わけが分からなくても、とりあえず今は、そういうものなんだと覚えておいてください。

先ほど私は、この真我という名の目玉、もしくは「感じる以前の気づき」を一列に並んでいる二個の目玉の中の第二番目のものに喩えましたが、以上のような次第で、この喩えにおける第二番目の目玉というのは実は、たった一個の目玉でありながら、第三番目の目玉をも兼ね備えていることになるわけです。ここへきて急に、話がややこしくなりましたね。

真我・感じることも体感も実感も認識も理解も不可能なもの

さて、既に分かっておられますように、「感じる気づき」は「感じる以前の気づき」の前方に位置しているため、私たちは「感じる気づき」をもって「感じる以前の気づき」すなわち真我を捉えることはできません。早い話が、私たちは真我を感じることはできないということです。

これはひいては、「感じる気づき」のバリエーションの一つである体感や実感によっても私たちは真我を捉えることはできないということ、言い換えれば、私たちは真我を体感したり実感したりすることはできないということでもあります。

もっと言えば、「感じる気づき」のバリエーションの一つではないけれど、心の働きという意味では「感じる気づき」のお仲間とも言える認識や理解などによっても、私たちは真我を捉えることはできないということまで、それは意味しています。

私たちは、「感じる気づき」や体感や実感を通して真我を捉えることはできないのと同じように、認識や理解などを通して真我を捉えることもまたできないんですね。

私たちに生じた「感じる気づき」や体感や実感や、認識や理解などに気づいているものこそが実は真我なのだと考えれば、その意味合いがよりはっきりとすると思います。

従って私たちは、「ああ、これが真我か」とか「真我とはこれのことだったのか」などと思った時には、自分の間違いというかトンチンカンさに気づくべきなのです。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

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