悟り・三次元空間の外側への視点移動

※当記事は管理人のYOUTUBE動画『悟り・三次元空間の外側への視点移動』のナレーションテキストを記事化したものです。記事化に当たっては部分的な修整・添削をほどこしました。

真我という見る意識の視点の位置は三次元空間の外側

今回は、悟りとは視点の位置が三次元空間の外側に移動することでもあるということをメインに話を進めていきたいと思います。

さて、真我は私たちの内なる見る意識であるところから目玉に喩えられることがありますが、仮に真我が目玉だとしたら、私たちがその存在を認識しているものたちというのは、その真我という名の目玉によって俯瞰されているスクリーン上の映像のようなものだとも言えます。

つまり、私たちがその存在を認識しているものたちと私たちの内なる見る意識・真我の関係は、スクリーン上の映像とそれらを俯瞰している、もしくは俯瞰的に見ている目玉の関係に喩えることもできるということです。

ちなみに、ここに言う「俯瞰している」とか「俯瞰的に見ている」というフレーズは全体的に見るというほどの意味です。

この喩えの中のスクリーンは三次元空間を表しています。私たちがその存在を認識しているものたちというのは全て三次元空間の内部にあることを考えれば、その妥当性がお分かりになると思います。

私たちがその存在を認識しているものたち全てを内包する三次元空間を表すことができるのは、ここでは全ての映像を内包するスクリーンしかないんですね。

が、ここで皆さんに思い至っていただきたいてのは次のことです。私たちの内なる見る意識・真我の象徴である目玉はそのスクリーン上の映像をそのスクリーンの外側から俯瞰している。私たちの内なる見る意識・真我の象徴である目玉がスクリーン上の映像を俯瞰している位置はスクリーンの外側なんですね。

このことにつきましては、皆さんの中に異論をはさむかたはおられまいと思います。なぜなら、スクリーン上の映像を俯瞰するということの中には必然的に、スクリーンの外側に居るということも含まれているからです。要するに、スクリーンの外側に居なかったらスクリーン上の映像は俯瞰できないということです。

ダメ押しのためにもっと言わせてもらうなら、スクリーンの外側に居ない者には、スクリーンの広がりそのものをも捉えることができません。どんな次元のものであれ、ある広がりを捉えることができるのはその広がりの外側に居る者だけであるということは、覚えておかれたらいいと思います。

そうしますと、ここに言うスクリーンというのは前述のように三次元空間の象徴でありますから、今の話から私たちは次の結論を引き出すことができます。

私たちの内なる見る意識・真我の視点の位置はこの三次元空間の外側にある。そう、大事なところなのでもう一度申し上げますが、私たちの内なる見る意識・真我の視点の位置はこの三次元空間の外側にあるんですね。

そんなベラボーな話があるものかと思われた向きもあるかも知りませんが、私たちの内なる見る意識・真我の覚醒を意味する悟りに到ったアカツキには誰でも、そのことが体験的事実としてお分かりになるはずです。

なぜなら私たちは悟りに到ると、モノを見る時の視点の位置が三次元空間の外側に移動するからです。それまではモノを見る時の視点の位置は三次元空間の内側にあったものが、悟りと同時にそれが三次元空間の外側に移動するんですね。

それは、悟りによって覚醒した私たちの内なる見る意識・真我の視点の位置が三次元空間の外側にあることを物語っていると言えます。

ついでながら、悟りに超越という側面があるのは、そのためでもあります。

見られるものと分離していない真我という見る意識

話は変わりますが、私たちが悟りに到ることによって体験的事実として知ることのできるものの中には、今申し上げたことに加えて次のようなものもあります。真我の視点でモノを見ている時、見るものと見られるものの間に分離がない。

見るものと見られるものの間に分離がない、というのは言い換えれば、見るものはコチラにあり見られるものはアチラにあるという構図がないということ、あるいは見るものと見られるものの区別がつかなくなっているということでもあります。

その消息をクリシュナムルティは「見るものは見られるものになる」と表現し、西田哲学の西田幾多郎は主客未分(シュキャクミブン)と表現しました。またある人は、おもしろいのですが、「古池やカワズ飛び込む水の音」という芭蕉の句をもじって「古池や芭蕉飛び込む水の音」とその消息を表現しておられたと思います。

これらの言葉の真意は体験しない限り知る由もないとはいえ、真我という名の目玉が見ているものに釘付けになっているところを思い描くことで、その一端をチラッとぐらいはうかがい知ることができるも知れません。

いずれにしても、私がここでこの話をしたのには理由がありまして、それは何かといいますと、この話を通して私たちの内なる見る意識・真我の覚醒を意味する悟りの中では、見るものと見られるものを二つに分ける二元論は発生し得ないということを察していただきたいということです。

真我は私たちの内なる見る意識ですが、だからといって、その覚醒を意味する悟りによって見るものと見られるものを二つに分ける二元論が発生するということはあり得ないんですね。そこのところ誤解なきよう、よろしくお願いいたします。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

※はじめていらした方のためのページ→トップページ

コメント

タイトルとURLをコピーしました