真我の常識のウソ・真我は波動ではない!

※当記事は、管理人のYOUTUBE動画『真我の常識のウソ・真我は波動ではない!』のナレーションテキストに部分的な修整をほどこし、記事化したものです。

真我は波動ではなく一粒の無限大の粒子

今回は、真我にまつわる間違った常識の一つである「真我波動説」に物申させていただきたいと思います。ここに言う「真我波動説」とは、真我を成り立たせているもの、もしくは真我の実体を波動とする見方のことです。

これからそれに物申そうとしている私に対しては、そもそも真我に限らず、波動で成り立ってないものなんてないのではないか? といった感想をお持ちのかたも少なくなかろうと思いますが、私に言わせれば、波動で成り立っていない唯一のものが真我なんですね。

真我以外のあらよるものは波動で成り立っているとしても、真我だけはそうではないという風に私は見ているわけです。

こう申し上げると、じゃあアンタの言う真我ってどういうものなんだい? といった声が返ってきそうですが、私の言う真我は一粒の無限大の粒子のような存在なのです。

プンジャジも真我を一粒の粒子的な存在と見ていた

真我は一粒の無限大の粒子のような存在であるということについてご説明する前に、まずは、今はなきインドの覚醒者プンジャジの次の言葉をお聞きください。

けっして失われたことのないもの、永遠不変で、自然な、常に存在し、今ここにあるものを見いだしなさい。「今」を見なさい。空間を、あなた自身の空を見なさい。

引用元:『覚醒の炎 プンジャジの教え』28p
訳者/福間厳   発行所/(株)ナチュラルスピリット

いかがでしょうか? この一文の意味合いを考えますと、この中でプンジャジが私たちに見ることをススメているのは真我であることが見て取れると思います。

が、私の推測では、皆さんがたの多くがその真我と見なしておられるものというのはおそらく、次のように呼ばれているものの中のどれかではないかと思います。

宇宙、または宇宙大生命。

潜在意識または深層意識。

クォンタムフィールドまたは波動。

それから、ワンネス。

これらは全て、同じ一つのものの異なる表現と捉えることもできるかも知れませんが、いずれにしても、これらの中のどれかを真我と見なしておられるかたがたに特に聞いていただきたいものがあります。それは、前出の一文の続きです。

この中で、プンジャジがどういうものを真我と見なしていたのかが示されているのですが、これをお聞きになったらきっと、驚かれるに違いありません。ほーんとお? ちーとも知らなかったわー、みたいな感じでです。

前出の一文をもうお忘れの向きもあろうかと思いますので、あらためて、前出の一文からはじめさせていただきます。それではお聞きください。

けっして失われたことのないもの、永遠不変で、自然な、常に存在し、今ここにあるものを見いだしなさい。「今」を見なさい。空間を、あなた自身の空を見なさい。

(※ここからが続きになります)すべてはこの一粒の空の粒子の中にある。宇宙全体がその中に存在し、そこから現れるのだ。そこに戻りなさい。

引用元:『覚醒の炎 プンジャジの教え』28~29p
訳者/福間厳   発行所/(株)ナチュラルスピリット

いかがでしょうか?

最後のほうに出てくる「この一粒の空の粒子」なる言葉が真我を指していることは、前後の文脈からも明らかですが、これは真我の実体は一粒の無限大の粒子のようなものだという私の見解に合致します。

彼が「一粒の空の粒子」と表現しているところを私は「一粒の無限大の粒子」と表現しているという違いはあるとはいえ、真我を一粒の粒子的な存在と見ている点では、プンジャジも私も同じなんですね。

今明らかになる真我の常識のウソ

プンジャジの見解どおり、真我が一粒の粒子的な存在なのだとしたら、先ほど羅列した七つのものの中で、真我であることがまず最初に否定されるのはクォンタムフィールド、または波動です。

なぜなら、クォンタムフィールド、または波動というのは角度を変えて眺めれば無数の粒子の集合体だとも言えるからです。波動と無数の粒子の集合体は同じコインの裏表であることが分かっておられるかたには、これについての説明は不要でしょう。

一粒の粒子的な存在である真我と、無数の粒子の集合体でもあるクォンタムフィールド、あるいは波動、これら二つが似ても似つかないもの同士であることはお分かりいただけると思います。

そうしますと、今の話の延長として、波動なしでは成り立たない、宇宙とか、宇宙大生命とか、潜在意識とか、深層意識とか、ワンネスといっとたものなどもまた、多くの人たちの思い込みとは裏腹に、真我に該当しないという話になってしまいますよね。

常識のウソなんて言葉がありますが、多くの人が今まで当たり前のことのように思っていた真我とそれらのものたちの同一視は実は、プンジャジの見解を信じる限りでは間違っていたということになるわけです。

前出の引用文の最後の「宇宙全体がその中に存在し、そこから現れるのだ」というくだりからも、そのことが見て取れるのではないでしょうか。このくだりには、真我と宇宙は別物であるという含みも込められていますから。

·少し言葉を足しておきますと、宇宙がはじまる前から存在し、また、宇宙が終わったとしても なおそのあとに残るものが真我なのです。

・ニサルガダッタもまた真我を一粒の粒子的な存在と見ていた

ついでながら、プンジャジと同じ今はなきインドの覚醒者・ニサルガダッタ・マハラジも、真我を一粒の粒子的存在と見ていたことが伺える発言をしていますので、こちらのほうもご紹介しておきましょう。それは次の二つです。

・それは均質なひと塊なのだ。

・源は単一であり、シンプルだ。

引用元:『アイ・アム・ザット 私は在る』421p
翻訳/福間厳  発行所/(株)ナチュラルスピリット

いかがでしょうか? ここに言う「それ」および「源」という言葉が真我を指していることは明らかなので、これらのフレーズというのは、真我が一粒の粒子的存在であることを間接的に表現したものであると見ていいのではないでしょうか。

今回の話は以上です。

中島タローでした。

はじめていらした方のためのページ→トップページ

コメント

タイトルとURLをコピーしました